真・平和立国
門から遠い側に止まっている母の車はホンダのNBOXという軽自動車で、2年前に購入したばかりで白いボディーは輝いていた。それに負けじと輝く深い紺色の父の車は、スズキの軽四輪駆動車ジムニーだった。平面と直線を基調とした四角ばったデザインの古いジムニーは、製造されてから20年近く経ち、思い出を記したように所々にある小さな凹みが映り込む景色を歪めていたが、それが分かるぐらい磨かれているということだった。
1週間に一度30分間エンジンを掛け、月に一度は洗車してくれよ。
という父の依頼を1年近く忠実に守ってきた信浩は今朝もその成果を確認すると満足気に門を閉めた。アウトドア好きの父母と釣りに行ったり山に行ったりしたジムニー。家族の成長と反比例して老いてきたジムニーは、一昨年にはついにエアコンが駄目になった。部品もない。それでも信浩は免許を取ったらこの車を乗り回すのを楽しみにしている。父を隣に乗せて釣りに行くのもいいな。
信浩はジムニーで林道を疾走したり浜辺に佇む情景を思い浮かべていた。そのうち彼女が出来たらドライブもいいな。エアコンはダメだから夏は無理だけど。。。
そもそも、こんな古い車に喜んで乗る女はいないだろうな〜。乗り心地も悪いし狭いし。
妄想を苦笑で締めくくった信浩は乾いた狭い路地を歩きだした。
「おはよっ!」
「ヒぃっ」
不意に背中を叩かれて、信浩はカエルを踏んだような情けない声を出した。
「何だ、お前か。ったくビックリさせんなよ。」
「なんだじゃない。挨拶はどうしたのア・イ・サ・ツ。アタシは、おはようって言ったのよ。」
隣に住む矢島知美だ。
「お、おう、おはよう。」
そっぽを向いて歩きだした信浩を気にするふうでもなく知美は横に並んで歩きだす。
「今度は、いつ洗うの?あのジープ。」
「ジープじゃねえよ。ジムニー。ジープはアメリカにジープって車があんの。何回言ったら分かるんだよ。」
「ジープみたいなんだからジープでいいじゃん。ノブは細かいんだからぁ。そんなんじゃ女の子にモテないわよ。」
「俺は車の区別もつかねー女とは付き合う気ねーし。お前こそ何回も同じこと言われてるようじゃ彼氏できねーぞ。」
「いーのいーの。アタシは白馬の王子様が迎えに来てくれるんだから。あんたとは次元が違うのよ。」
何というかコイツにはいつもペースを握られてしまう。
「もう洗わねーよ。」
そういえば、コイツは時々洗うの手伝ってくれてたな。こいつ何をやるにも一生懸命なんだよな。額の汗も拭わずに一生懸命ボディーの水を拭いていた横顔を思い出す。一瞬、その横顔がジムニーの助手席に重なる。
「やべ、それは無理。」
思わず口を突いて出る。
「えっ、何が無理なの?」
「いやいや、何でもない。こっちのこと。
そういや、お前洗車手伝ってくれてたっけな。ありがとう。来週には親父日本に帰って来るからさ。そしたら親父が自分で洗うだろ。」
「そっか。おじさんに何御馳走して貰おうかなぁ。お寿司に、ケーキ。。。」
知美が指折り何かを数えだす。
「ちゃっかりしてんな〜。お前。」
2人で声を上げて笑ううちに、狭い住宅地の道から大きな通りに出た。通りの向うには市役所が見える。その向こうが、2人が通う石岡高校だ。
「さ、お前先行けよ。」
「何で?」
立ち止まった知美が信浩を見上げる。
「俺と一緒にいたら、お前まで「軍国主義」とか「人殺し」とか言われちまうぜ、」
正門は反対側の石岡駅の方なので、生徒の姿はそれほどでもないが、一緒にいるところを見られるのは気が引ける。まして付き合っているなんて言われたら心外だし、知美だって可哀想だ。
「何言ってんのよ。今さらでしょ?アタシそんなの気にしないし、言わせておけばいいのよ。いいのいいの腐れ縁なんだからアタシ達」
良く通る透き通った知美の声が道路の向うまで届きそうで、反射的に知美の口を塞ぎそうになった信浩はそんな自分自身に慌てた。そんなことしたら余計に怪しまれる。
「分かった分かった。」
今、信浩が住んでいる家は、もともと祖父母の家だった。小学校6年の時に祖父が死んでから3年間独りで身の回りのことを何でもこなしてきた祖母が肝臓を悪くして入院、独りで何でもこなすことが健康のバランスを保つ秘訣だったのか、入院生活で何もすることがなくなった祖母はあっという間に老い、3ヶ月で痴呆症になり、それから2ヶ月後には亡くなった。
航空自衛隊のパイロットになってから殆ど茨城県石岡市のこの実家に帰ることのなかった信浩の父、武元高浩は、自分の乗るC−130H輸送機と共に、即応集団第10航空団の百里基地で新たに編成された第471飛行隊に配属となることに合わせて半年間空家にしていた石岡市の祖父母の家、つまり父の実家をリフォームしながら住むことにしたのだった。石岡市は百里基地がある茨城県小美玉市の隣に位置しているので、十分に車で通勤できる距離だった。
矢島知美は、そんな信浩の祖父母の家の隣人で、同い年の知美は、信浩が祖父母宅に泊りに来た時はいい遊び相手になった。
また、近隣に親戚が少ないため隣人の知美の父母が何かと祖父母を気に掛けてくれていたことを知っていた信浩の父母は、家族ぐるみで矢島家と付き合っていた。
そして、小学生になった信浩は、独りで電車に乗れるようになると夏休み、冬休み、そして春休みなど、長期の休みなどには必ずその半分を祖父母宅で過ごした。
そんなこんなでこの「腐れ縁」は続いている。
そういえば土地のガキ大将から庇(かば)ってくれたこともあったっけ。。。
「。。。ありがとう。ごめんな。」
ぼそりと呟く信浩に
「ん?」
車用と歩行者用の信号をせわしなく見比べていた知美が振りむく。肩のあたりで揃った漆黒の艶やかな柔らかく波を打ち、朝の陽を受けた白い輝きの波がそれに追従する。ふっくらした頬の大きな二重瞼が信浩の目をじっと見つめる。気のせいかその頬には赤みが差し、目は潤んでいるように透明度を増している。洗車していた時のような一生懸命の目にも見えなくはない。
何だろう。いつもと違う。。。
信浩の思考を遮るように、歩行者用の信号が青になった。
「何でもない。渡るぞ。」
大股で歩き出した信浩にブツブツ言いながら小走りに知美が続いた。