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記憶の十字架

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――睦月はどう感じているのだろう?
 睦月も同じように壁があったことを知っていたふしがあった。しかし、今の睦月は確かにどこかが違う。そんな睦月に以前と同じ感覚があるとは思えない。そう思っていると、自分と同じように感じていたはずの壁を感じなくなったことに違和感を感じているのではないかと思えて仕方がなかった。
 睦月は、あまり友達の多い方ではなかった。大人しい性格も手伝って、学校でも話をする人は少なかった。
 まわりはそれを、
「自業自得だわ」
 と思っていることだろう。
 睦月は、まわりから挨拶されると挨拶を返すが、自分から挨拶をするような気さくな性格ではない。最初はそれほど気にしなかったまわりの人たちも、さすがに毎回自分からしなければいけない挨拶にウンザリしていたことだろう。
 だが、そのことも睦月は分かっている。本当は自分からしなければいけないこともあることは分かっているのだが、どうしてもできない。それは、タイミングが合わないからだ。相手は別に気にもしていないタイミングだが、睦月は自分のタイミングを無意識に持っていて、一度タイミングを外すと、二度とできなくなってしまうと錯覚しているようだ。
 ただ、そのことに気付いたのは最近のこと、森山との結婚を考え始めてからだった。
 そのことも、
――今だから、分かったこと――
 だったのだ。
 睦月が記憶を失っているということを知らない人でも、
「彼女、本当に変わったわね」
 と、他の人が見てすぐに分かることだろう。それは、今までの睦月と入院してからの睦月は、まるで別人のように見えるからだ。
 人に気を遣うということをしなかった睦月に対して、
――気を遣おうにも、どうすればいいのか分からなかったからなんだろうな――
 と思っていた人は、少数だっただろう。ほとんどの人は、
「あの人は、分かっていて、人に気を遣わなかったのよ。要するに人と接するのが嫌なだけなのよ」
 と思っていたことだろう。
 少数の人という中には、もちろん森山も入っている。睦月のことを贔屓目に見ている人しかいないだろうから、当然、少数なのである。
 だが、そんな森山も、入院してからの睦月を見ていると、
――やっぱり他の人が言っているように、分かって言て人に気を遣うことをしていなかったのではないだろうか?
 と思うようになった。
 なぜなら、入院してからの睦月は、完全に性格が変わったというよりも、
――今までの彼女がおかしかったのではないか?
 と思うほど、今では気さくな性格になり、自分から人に話しかけるまでになっていた。
 しかも、睦月は入院するまでの自分が無口で人とあまり話をしなかったということを忘れているようだ。医者が言っていたように記憶の半分を喪失しているというのは、最初信じられなかったが、
――信じないわけにはいかない――
 と思うほど、豹変してしまっているのだった。
 自分から人に話しかけるようになってくると、人に気を遣うということも自然にできるようになっていた。きっと睦月の中では、
「別に人に気を遣っているわけではない」
 と思っているに違いない。
――人に気を遣うというのは、自然に出てくるもののことであって、意識して気を遣っているというのは、相手に対しての押し付けでしかないのかも知れない――
 と、今の睦月を見ていて、そう教えられた森山だった。
 それ以外は、今までの睦月と変わっているわけではないようだ。それだけに、睦月に対して、
――親近感が増したのは感じるが、それ以外は僕の知っている睦月なんだ――
 と思っていた。
 本当は、親近感を感じるところまでくる必要はないとまで思っていた森山だった。
――親近感が増すのは悪いことではないのに、どこかしっくりこない――
 と、感じていた。
――睦月じゃないようだ――
 退院が近づくにつれて、そんな風に感じるようになってきた。
――その思いを睦月には知られないようにしなければいけない――
 と思いながら、睦月に接するのは少し辛かったが、睦月を見れば見るほど、今までとがっているようで、どこか遠くの存在に感じることもあるくらいだった。
――だんだんと遠のいて行っている?
 と思うほどで、ただ、そう思っているのは森山だけ、他の人は、
――これが本当の睦月だったんだろう――
 と思っているのかも知れない。
 本当は、そう思わなければいけないのは森山なのだが、完全にはそう思えないところがあった。疑り深いところがあるわけではないが、入院してからの睦月の記憶が半分喪失している。そのことを意識するあまり、睦月のことを、
――まるで別人のようだ――
 と思わなくもない自分がいることを分かっていた。
 今までの睦月は、森山にとって、
――自分は特別なんだ――
 という意識があった。
 他の人には人見知りや、自分を出そうとしなかったのに、森山にだけは心を開いてくれている。
――自分だけの睦月――
 という意識が強かった。
――どこが変わったというのだろう?
 気さくにはなったが、他の人に心を完全に開いているようには見えない。
「それこそ、お前の偏見なんじゃないか?」
 と、他の人に話せばそう言われるかも知れない。
 確かに偏見なのかも知れないが、
――他の人の知らない睦月を、自分だけが知っている――
 という思いをずっと持っていた森山にとって、今の睦月もそうだなのだと思いたいのだった。
 偏見という言葉は、ある意味都合のいい言葉だった。
 自分の考えていることを正当化しようとするには、自分を納得させる必要がある。相手があることで自分に納得させることが困難なこともあるだろう。しかし、そこを偏見という言葉を使って、少し他の人と違った目で見たとしても、自分なら許されるという時には、これほど都合のいい言葉はないと思っていた。
 睦月がどう思っているか分からないが、
――まずは自分を納得させること――
 それが大切だと思っている森山は、今の睦月に対して、手放しで性格が変わってしまったことを喜ぶ気にはなれなかったのだ。
――何か、隠しているのかな?
 と思ったのも無理のないことだが、記憶を半分だけとはいえ失っている相手である。
――そんな器用なことができるはずもない――
 と思えてきた。
 睦月の性格が、記憶を失ったということを医者から聞いた時、変わってしまったように見えていたが、本当は、それ以前から少しずつ変わっていたことに、森山は気付かなかった。
 本当は気付いていたのだが、交通事故に遭ったという事実と、それによって記憶の半分が喪失したという事実。そして見た目からして変わってしまった性格を見ていると、それまでのことを森山が意識できなくなったとしても、それは仕方のないことなのかも知れない。
 それでは、睦月の側からすればどうなのだろう?
 森山が、自分に対して疑念を抱いていることは、睦月には分かっていた。だが、それを表に出せないのは、
――私はこの人に対して、話してはいけないことがあるんだわ――
 として、内緒にしていたことがあった。
 交通事故に遭ったのも、実はそのことで頭を悩ませていた時、ふとした油断から出会いがしらに起こったものだった。
作品名:記憶の十字架 作家名:森本晃次