鏡台
最近つけられてる、そう話していたのだった。
「バイトから帰る時間帯って最近もう暗くて」
うん、と松田さんは頷いた。
「でも……相手は帰宅時間を知ってるってこと?」
「ストーカーの事情なんて知りませんよ」
私に訊かれても。
誰なのかも、心あたりがない。
「幽霊かな?」
いたずらっぽく笑いながら松田さんは言う。
「……、冗談でもやめてください!」
「はは、悪い悪い」
悪いと思ってなさそうだ。こちらの反応が可笑しくてたまらないというふうでさえある。
「あ、お茶でも」
「いや、気なんか使わなくて大丈夫で……」
「……入れようと思ったら、ちょうど切らしてた。あはは」
この部屋は、必要じゃない物しかないようだ。
するとそこへ、ピンポン、と玄関のチャイムが鳴った。
こんなところへも来客があるのか、と驚いた。
「ああ、来たな」
と松田さん。玄関に向かい、扉を開けたらしいガチャリという音がした。
「や、悪いね」
「いえ、どうせ暇だから」
「ささ、入って」
ふと見ると、同い年くらいだろうか、男の子だった。
「はじめまして、高山です」
「あ……、希です」
軽く会釈した。
「じゃあさ高山君、彼女を帰りに送ってってよ」
私は我が耳を疑った。えっ、と声をあげる間もなく、松田さんは、
「そういうことだから」
安心して、と言った。
ボディーガードだよ、とも。 唖然とした。
知りもしない人で、しかも今日など初対面だ、そんな得体の知れない人と一緒に帰れというのか。
松田さんが普通じゃないのは見た目から明白だから以前から知っていたが、これには参った。
困惑と軽蔑の混じった目で睨んだが、一向に気にする様子はない。
「あのこれ」
高山君とやらが、ビニール袋を差し出した。
「お茶ってどれがいいか分からなくて」
狭山茶だ。埼玉県名産じゃないか。
「うん、どれでもいいんだけどさ、ありがと」
買い出しまで頼んでたとは。
「どれでもいいってことは、な……」
「今、お茶入れるから二人とも、そこ座って待っててよ。高山君も寒い中、ご苦労様」
私の発言は流された。
「はい、じゃあ遠慮なく」
高山君とやらは本当に遠慮しないで、ぺたりと床に座った。はあ、と、手に息を吹きかけている。かじかんだのだろう。
ごったがえして、必要じゃない物しかない部屋だが、かろうじてコタツはあったので、高山君は足を入れて暖まっていた。
「あのう……」
黙っているのも居心地悪いので話しかけることにした。
「高校生……ですか?」
「うん、高三」
「ああ、同い年ですね」
「僕、早生まれなんでまだ誕生日来てないんだけどね」
そこまで厳密なことは……、と思ったが、はた、と思い、
「あ、私も早生まれなんですよ」
ということで、会話の糸口が掴めて安心した。それとなく談話していると、
「はい、お茶」
松田さんはコタツの上に湯呑みを置くなり、真っ先に自分が飲んだ。
「あ、あつっ」
「そりゃ熱いですよ」
と私が言うが早いか、
「あつっ」
高山君もすでにお茶をすすっていたようだ。
どうもこの二人は天然なようだ、と私は今更ながら気づいた。
遡
「直哉さ、頼みがあんだけど」
兄からの電話だった。僕はもう夜中だったから無視しようと思ったが、あまりにしつこいので出ることにした。
「何?」
努めて冷たく言い放った。
「松田さんとこで頼まれたことがあんだけど、ちょっと用事があってさ、頼むよ」
兄の用事など、どうせ大したことではない。いつものことだった。 兄も僕も、松田さんとは古くからの知り合いで、たまに顔を出すのだ。
「……うん。え?なん……、そんなこと何で僕が」
「な、頼んだ。じゃまた連絡するわ」
プツッ、ツー、ツー、……。
はあ。
断れない僕も僕だな。
松田さんと兄からの『頼みごと』を引き受けることになってしまった。
布団を頭まで被り、眠りについた。
承
「寒いね」
僕が言うと、隣の女の子は、ええ、と頷いた。「わざわざ送ってもらっちゃってすみません……えっと高山君は家はこっちの……?」
「うん、そう、S駅」
ミキさんと僕は電車に乗っていた。ちょうどK駅を通過したころだった。
「あ……、じゃあ近いんだ」
そういえば、と僕は言った。
「誰かにつけられてるとかって言ってたね?」
「は、あいえ、確信はないんです……だけど」
「送ろうか」
ミキさんはみるみる表情が変わった。明らかに警戒心を強めたようだ。
「ああ、いやその、危ないし、うち近いから、さ」
たどたどしくなってしまった。ちょっと唐突すぎたか。
「……、え、ええと」
その時、S駅〜、とアナウンスが流れた。ミキさんは、はっとした。降りる駅だ。
二人で降り、改札を抜け、ミキさんの家へ向かった。
「あの……ありがとうございます、じゃあ、ここで」
「あ、うん」
家の近くまで来たのだろう、遠慮がちに言ったので、僕も努めて冷静に答えた。
「僕もこの近くだから」
何かあったら、と言って、《心の友の会》の名刺の裏に自分の連絡先を書いて渡した。
「あ……はあ……」
なんだこいつは、と言わんばかりの表情でこちらを眺めてくる。
ふうっ、と白い息を吐いて僕は、
「ボディーガードだから」
笑いながら言った。
「じゃあまた」
波
「直哉君って幽霊とか信じる人?」
「は? 何を急に言い出すんです……」 僕は松田さんの事務所にいた。コタツで暖まっていると、松田さんは唐突に切り出してきたのだ。
「ここにさ、鏡があるんだけど」
ガラガラと引き戸を開けた。この部屋の構造はどうなっているんだ。
玄関のドアから入って左側に窓、右側の壁に本棚があった。その本棚をどけて、それから壁にあった引き戸を開けたのだ。
どんでん返しになっていたら、忍者屋敷さながらだった。
鏡には、雑然とした室内が映っていた。
「この鏡はさ、生きている人間しか映らないんだ」
「は」
「直哉君、ちょっとここに立ってみてよ」
松田さんは鏡の隣、僕より向こう側に立って、そう指示した。
「もし直哉君が映らなかったら」
にやり、と笑いながら言った。
「直哉君は幽霊かも」
「ば……馬鹿なことを……」
言わないでください、と言おうとして、口をつぐんだ。
それから、至って冷静に、僕は幽霊なんて信じてないし、もし仮にいたとしても僕は電車の改札の扉だって開いたし、コンビニで買い物だって出来たし、足だってついている。僕は今この瞬間まで普通に生きてきた、現にこうして松田さんと喋っているじゃないか。
それに何より、死ぬような思いをしたことがない。
しいて言えば今、死ぬほど寒いということくらいだ。
それだって寒いのが苦手なだけで、凍死寸前というわけでもない。
というような内容のことを一気に捲し立てるように喋り終えると、松田さんは僕を、
「まあまあ」
と、なだめすかした。
それがさらに悔しく、僕は勢い込んで鏡の前に立った。
「……!?」
映ってない。
そんな馬鹿な……。
愕然とした。