過ぎゆく日々
通信簿
終業式と言えば、付き物の通信簿。先生から手渡され、恐る恐る覗いたものだ。真っ先に見るのは主要科目の数字。右側の生活面の評価の〇などはどうでもいい事項だった。
しかし、数字の成績がモノを言うのは学生時代に限られるものだ、と後になってわかる。微分積分が解けても、実生活に役立つことはほぼない。
花壇係をきちんと務めた、みたいにひとつのことをやり抜く、とか、他を思いやる、とか、行動の記録、生活面の評価の方が、その後の長い人生にははるかに重要なのである。
学習の評価にしても、主要科目以外の音楽や図画工作は、豊かな感性を育て、人生において大切な趣味というものに繋がっていく。家庭科は、生きていくことに不可欠な技術であり、体育は、健康に直結するなくてはならないもの。
このように、通信簿の評価の価値が、学生時代と社会に出てからとでは180度変わることになる。無論、高学歴が必須の職業に就くとなると、話は変わってくるが、そのような道を選ぶ人は比率的には少ないだろう。
それに昨今、高学歴の輝かしい経歴を持った人たちの眉をひそめる言動がよく伝えられている。単に頭がいい、仕事ができる、それだけでいいはずがないということを改めて感じさせられる。
一方で、家族のためにひたむきに働き、仕事中に事故で命を落としたり、他人を救うために、自らを省みず海に飛び込んだり……そんな名もない人たちの記事を新聞の片隅で見つけることがある。本当に心が痛む。
人間として本当の価値を表す、大人の通信簿。そんなものがあったとしたら、そのような人たちの方が、各方面の「先生」方より、ずっと高評価に違いない、と言ったら言い過ぎだろうか。