過ぎゆく日々
基準
人は自分が経験してきたことを基準に、物事を捉えがちではないだろうか。「今どきの若い者は……」年配者がよく使うこのフレーズもそこからくるのだろう。
そして自分がそれを口にする順番がやってきてしまった。
私が子どもの頃、学校は自分たち子どもの世界だった。特に、中学高校となるともはや親の姿は見えない。高校などは入学、卒業式にきたくらいなものだ。
しかし今は、部活動でさえ保護者たちが表に出て活動している。それどころか、大学の入学式、いや、就職すれば入社式まで親が出席するという話には驚かされる。
また、昔の暮らしの中では「使い捨て」などはとんでもないことだった。食卓のちょっとした汚れでも紙でふき取るのではなく繰り返し使える布巾で拭き、水も流しっぱなしではなく洗面器に溜めて使うよう厳しく躾けられたものだ。そう、「もったいない」精神だ。
しかし今は、紙おむつは当たり前、電化製品でさえ修理より買い替えの時代だ。子どもの頃に叩き込まれた意識や習慣を時代に合わせて変えていくのは難しい。
だが、それもこれも自分の時と比較して違和感を覚えるにすぎないのだとしたら、自分の基準を変えればいいことになる。
くしくも来年は年号が変わる大変化の年だ。
ちなみに私の父は明治生まれ、母は大正生まれ、私と子どもたちは昭和で、その子どもたちは平成生まれだ。そして、今後新しい命が生まれるとなれば、新元号の生まれになる。
それぞれが自分の時代を生きてきたのだから、抱えている基準もそれぞれだっただろう。言い換えれば世代間格差、間に挟まれた私たち世代は目下右往左往の真っただ中だ。
そして今後、ますます加速していくであろう時代の波に翻弄されるのは目に見えている。キャッシュレスや店舗を持たないお店など、すでに一昔前の常識が通用しない時代になりつつあるのだから。
窓口で切符を買い改札口で鋏を入れてもらって電車に乗った時代、買い物籠にがま口を入れて商店街に買い物に行った時代は、遠い遠い過去の出来事になるのだろう。