初秋の朝と夜
もういくつもの自己啓発セミナーを受けてきたが、この男のセミナーはまるでヘリコプターに乗るかの如く人生を開けさせて魅せるのだった。自分はもっと認められるはずとの思いは強かったから、洗脳というか、新たな思い込みというべきか、脳を直撃するような刺激がもたらされた。この刺激は、女としての魅力を掻き立てる新たな要素を持っていた。
怪しいところがあるなら、やめればよいと思っていた。いつでもやめる自信はあった。しかし、情緒不安定な時がないわけではなかったから、女としての新しい目標設定にはとても魅力がある。騙されないと思いつつ、不安を押し殺した。
ちょっと派手な服装に身を包んでの舞踏会、新鮮な体験である。今、楽しくて仕方がないとレポートする。本格的なトランプ占いを勉強する一方、人生のノウハウものが大好きでもある。これは、矛盾の両極なのだろう。
時間と金を費やしながら、ステージが上がっていく。
変身は、女性の特技だ。それは少女時代、化粧することを覚えた時から始まる。変身はいったん、不満、不安を解消、解決することができる。しかし、それは、新たな矛盾をもたらす。変身の矛盾の蓄積と解決、その繰り返しが、女性のドラマだ。
「お部屋番号をお聞かせください」
「ここは、鍵がないと来られないから、ロビーに降りて待っています」
男の説明にとまどいながら、まだ踏み入れたことがないホテルの優良顧客のための空間に、女は胸をときめかした。
「久しぶり」
男の方から、声をかけてきた。
女が大きなバックをぶら下げているのを視線で追うことはしたが、尋ねる言葉は発しなかった。
「春以来ですね、もう忘れられたのかなと思っていました」
女はていねいな標準語で応じた。男は白髪ながら長身で、これまでに出会ったことがないタイプだった。あいさつすると、男は視線を落として、ハイヒールをたしかめると、女の足元から全身をゆっくりと見上げていった。この男の対応はよい、好感が湧いてくる。男性は、顔を見て、次は胸か、またはお尻である。そうではなくて、胸からもあるし、お尻からもある、男は不思議な生き物だと思う。
女はあらためて、男が予想以上に大人の雰囲気なので安心した。
「軽くビールでも飲みますか」
男はレストランを指さした。
「お部屋でどうですか」
「そうしようか、今日もすてきだね、期待していた通り」
男は女のアクセサリーをさっとチェックした。
「きれい」
女の足もとにふたたび視線をおろして、爪のペデキュアをほめた。
男は東京の企業経営者と聞いている。その企業は、自分が勤めているIT関連業界ではなかったが、経営者の話には興味があるし面白い。
高層階のフロアーでエレベーターを降りたが、廊下には人の気配がない。会員制のホテルのごとくである。女は緊張感を隠し切れず足早になっていた。早く部屋につくよう念じながら、沈黙していた。
エレベーターを案内したスタッフの女性の態度がどうだったかと、しないでもよい不安が頭をかすめた。この年の差のあきらかな親子のようなカップルに対して、どう思っただろうか、二人の秘密を勘繰られただろうか、そう考えると落ち着かない。
廊下の突き当り、めざす部屋のドアを開けると、女は
「すてき」
と感嘆の声をあげた。
女は、この広々とした空間に二人だけなのをごまかすように、窓まで進んで、レースのカーテンを開けきった。
東山の山並みが眼前に展開し、「大文字」の如意ケ岳から比叡山が視野に入った。大文字は夏の終わりを告げ、秋風が吹きはじめる。
「素敵なお部屋ですね、こういうところに住みたいです」
「いいねえ、京都のマンションは、東向きの方が高いのだね、眺望の良いことが、値段に入っているそうだ」
「もう、秋の空ですね、透明なブルー」
まだ秋は浅く日は長かった。
「きれいな空気だね、秋めく大気の底にいるのだね」
「素敵な言葉ですね」
「いや、いや」
「マンション、買われたんでしょ、億ションを」
「鴨川に面していて、東山が眺められるのが気に入って」
「京都、お好きなんですか」
「家内が好きでね、京都は出かけやすい、ふつうの暮らしがある、季節ごとに変化があってあきないそうだ」
「普通の暮らしって、何でしょうか」
「リゾートの町はそれだけ、あきてくる、京都は日常の買い物ができて、料理ができて」
「それがいいのですか、ふーん」
女は男の主張がわかりかねたから、疑問符を投げた。
「1か月も2か月も長期滞在すると、リゾート地はもう、つまらないね」
「ということは、京都はリゾート地ではないんですか」
「それがいいと、家内は言っているね」
あいさつ代わりの会話の続きを済ませると、男は
「ちょっと、歩いてくれないか」
と女に求めた。
歩かされるのは、予想していたパターンのひとつだった、眺められるのはキスに似ている、皮膚感覚が鋭くなる。
ストリップは毎日のように、鏡を見ながらしている。今朝もした。
「この服、脱いだら、裸とか」
「刺激的だね」
女はネイビーブルーのワンピース、一見オーソドックスだが、歩けばわかることがある。部屋をゆっくりと往復する女を見ながら、
「黒に見えるが、ちがうんだね」
「濃紺です、光の加減で黒っぽいんです、鮮やかでしょ」
「すてきだよ」
男は女の全身を眺める。
「歩く姿もとてもいい」
ここが勝負どころだ、ハイヒールに素足がアピールする。ブルー系は着こなしがむつかしく、以前は苦手だったが、今日は勝負服となった。
「顔が小さいし、お尻も小さいから、ほんとにかわいい」
「ありがとう」
「色っぽいね」
「そうですか、頑張って着て来ました」
歩くと、裾が割れる。裾が割れると腿があらわになる。女は、男が楽しんでもらえるようにゆっくり歩き、時折、男の方に微笑みを投げかけた。
四条通りからホテルまで、裾が割れるのを気にしながら歩いてきた。目立つ格好をして町に出かけることがあり、視線が集まってくることがあったが、それは心地よい体験だった。今日は「出会い」のための特別な設定があり、気負いがある分、いつにもなく、男性が視線を注いでくるのが恥ずかしかった。
男性たちは、
「ビッチ」
と自分を見ながら、心の中でつぶやくのだろうか、あるいは声を出しているだろうか、しかし、あなたのものにはならないわよ、私はとても高いのですから、女は自分に言い聞かせるように独り言をして、男性たちの視線を跳ね返した。
「いいねえ、良く着るの、こんな刺激的なかっこう」
「着ません、着ません」
「ヒールはよく履くの」
「ヒールはね、最近ですけど、好きです」
女はハイヒールを上手に履きこなしていた。
「似合ってるよ、ほんとに、姿勢がいいし、歩き方が洗練されてる」
男は、女をほめあげた。女は努力を認められた新入社員の気分だった。あの店の女性オーナーが、女のこの1年ほどの変化を話しているだろうか。社交ダンスを習い、おしゃれになったことを。今日のための装いは何もかも、女性オーナーの店ですすめられて購入したものばかりだった。
「エレガントでいて、魅せるね」
「この色、好きなんです」
「町は、黒ばかりで、嫌いだね」
「黒く見えても、紺かもしれません」
「黒だと思うね」
「そうかもしれませんね、たしかに」