池の中の狂気
第2章:狂気の依頼
キッチンの隣にある大きな家事室のテーブルの上に置かれたクッキーを摘みながら、壁にかけられたテレビを見ているのは、この屋敷の家政婦である。彼女は電話に出なかった。なぜなら勤務時間は20時まで。今は20時4分だ。
彼女はエプロンを外して、帰り支度を始めた。テーブルの上に置かれた洗濯物は、まだ途中までしか畳んでいないがそのままにして、テレビを消して自分の荷物を持ち、クッキー数枚をカバンに忍ばせて家事室を出た。そして狭い通路の先の勝手口へ向かったが、彼女はそのドアの鍵を持っていないことに気付いた。
このまま、鍵を開けたまま帰宅していいものだろうか。彼女は少し迷った。仕方なく、寝室にいる奥様に内線電話をかけて確認しなければと思った。
家政婦は家事室に戻り、内線電話の受話器を取ろうとした瞬間に、またその家の固定電話が「チン!」と鳴った。彼女は偶然にも、そのタイミングで受話器を持ち上げてしまった。
「もしもし! もしもし!」
電話の向こうで叫ぶ声が聞こえてきた。彼女は一瞬とまどい、その電話を切ってしまおうかと思ったが、もう取ったのが自分だと判ってしまうのは明白なので、
「はい?」
と答えるしかなかった。
「お前は誰だ? 妻はどこにいる?」
家政婦は、とっさにその声がこの屋敷の旦那様からだと分かった。奥様からは旦那様は海外出張中だと聞かされていた。しかし、困ったことになった。もし旦那様から電話があっても、電話を取り次がないように言われていたからだ。
「私は今日からお世話になっている家政婦です。」
「家政婦だと?」
「はい、お屋敷の塀に家政婦募集の貼紙を見て、申し出たのですが、奥様は今日からすぐにと仰いまして。」
「ああ。今日から来てくれているのか? しかし、さっきから電話をしているのにどうして出なかったんだ?」
「申し訳ございません。奥様は体調を悪くされていまして、寝室におられます。そのお世話をしておりまして、電話には出ることができませんでした。」
「何? それで妻は携帯電話にも出なかったわけか。」
「はい。今はお休みになっておられます。」
「起こせ。」
「は?」
「妻をすぐに起こせ。」
「そ、そうは参りません。」
「私が起こせと言っているのが分からんのか!」