池の中の狂気
序章:狂気の夜
高級ホテルの一室の応接セットの一人掛けソファに、初老の太った男が座っている。しかめっ面でグラスに赤ワインを注ぎながら、サイドテーブルに置かれた固定電話の受話器を取った。
老眼がきついのか、何度も目を細めて、慎重にプッシュボタンを押しているが、失敗しては受話器を電話本体に置き直し、はじめからダイヤルしていた。それも仕方ない。この男は国際電話をかけようと、その長い電話番号に手間取っている様子だ。
やっと番号を打ち終え、暫く受話器の音声が無音の状態が続いている間、男は貧乏揺すりをしながら、大きな窓の外に見えるエッフェル塔の上に浮かぶ、まるい月を睨んでいた。
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屋敷の中は静寂に包まれ、それを邪魔しない穏やかな音色で電話が響く。玄関ホールの豪華な階段の傍に設けられたニッチェの上では、白い陶器製のいかにも高級そうなゴシック様式の受話器が、僅かに揺れている。
電話の主はしつこく、或いは重要な用件があったのか、その呼び出し音は3分も鳴っていただろうか。それは広い屋敷中に繋がっているすべての内線電話からも聞こえていたが、誰も電話には出なかった。結局その音は、暫くして途絶えた。