②残念王子と闇のマル
「唇と心だけは汚さないよう…汚されないよう…守り抜いてきましたが…」
そして、王子から目を逸らす。
「体が汚れているのは…事実です。」
俯いて、今度はさっきより強く唇を噛みしめると唇が裂け、血が滴り落ちた。
「マル!やめろ!」
王子が慌てて顎を掴んでくる。
そして至近距離で目が合うと、そのまま覆い被さるように唇が重なった。
けれど、王子の舌は口内に差し込まれず、私の唇の血を丁寧に舐め取っていく。
そしてそのまま首筋まで降りると、先程の剣でつけた傷も舐める。
その瞬間、甘い痺れが全身に走り、思わず甘い声が漏れた。
「ぁ…。」
すると王子は更に首筋に唇と舌を這わせながら、大きな手で胸の膨らみを優しく愛撫してくる。
「…ん…ふ。」
唇を再び塞がれ、今度は舌を絡められた。
喘ぐ吐息すら、王子は荒々しく絡めとっていく。
胸を愛撫していない反対の腕で、腰を強く抱き寄せられると、王子の大きく膨らんだ熱い情熱が胸の下に当たり、体の芯から甘い痺れが溢れだす。
「お…うじ…。」
途切れ途切れに声を出すと、王子は私からサッと離れた。
(…え?)
戸惑う私の頭にタオルを被せ、ゴシゴシ全身を拭き上げる。
「髪、乾かして待ってな。」
言いながら、私を浴室から追い出した。
(王子…。やっぱりこんな汚れた私はもう嫌なんだ…。)
そう思うと、涙が再び溢れだす。
(…王子に嫌われたままそばにいるのは…耐えられない。)
王子から愛される幸せを知ってしまった今、そして王子をより深く愛してしまったことを自覚した今、それを失った世界で生きる気力が…もうわかなかった。
白雪姫のところでは『まだ傷は浅い』と思ったけれど、その後から襲いくる喪失感が想像以上に強く大きくて、私から全てを奪う。
それほどに、王子の存在が私の中で大きくなっていたのだ。
私は鞄から小瓶を取り出す。
(…父上…。)
小指ほどの大きさの小瓶を私は眺めた。
これは儀式が終わって、一人で初めて諜報任務に向かうときに、父上から手渡された毒だ。
本当に堪えがたい目に遭った時や、任務を失敗して逃げ切れない時に使うようにと渡された、無味無臭・無色透明の猛毒。
星一族だけか精製できる秘薬だ。
13歳で一人前の忍になって、色んなことがあった。
儀式の時の事も、死にたいくらい辛くて、未だに夢に見る。
一人前になってからは、もっと酷い目に遭ったし、残酷なこともしてきた…。
キース王子の国も、私の調略と諜報で滅ぼした。
忍の任務で、人に胸を張って言える仕事なんてない。
お金さえ積まれれば、非人道的なことでもしてきた。
それが、花の都を支える、大事な収入源だったからだ。
忍として経験を積み能力を評価される毎に国は豊かになるけれど、私自身は闇の深淵へと堕ちていく…。
そんな闇の中を生きていた時に、王子に出会ったのだ。
王子は、私が深く沈んでいた闇に差し込む、一閃の光だった。
その光が、蝕まれていっていた私の心を救ってくれた。
それに、おとぎの国からの任務は、醜いものはひとつもなかった。
いつも優しく、春の日だまりのような世界…。
いつしか私の闇の世界は、足元に伸びる影程度まで小さくなっていた。
そこから再び、光も差し込まない深い闇の底へ堕ちて生きる気力が、今の私にはもうない。
「父上、母上、…今回だけは、もう私はダメです…。申し訳ありません…。」
小瓶を握りしめると、その栓を抜き一気に煽る。
その瞬間、小瓶が手の中から吹っ飛ぶ。
そして壁に当たり、音を立てて粉々に割れた。
数秒遅れてその破片の中に、小瓶を私の手から奪ったと思われる手裏剣がポトリと落ちる。
(この手裏剣はやっぱり…!)
影の正体を確信した瞬間、心臓が激痛と共に締め付けられ、肺が膨らまなくなる。
それと同時に意識が朦朧とし、体が傾いだ。
小瓶の毒が小量、口に入っていたようだ。
「麻流(まる)!!!」
低く艶やかな声が聞こえ、私の体がふわりと抱き留められた。
(ああ、やっぱり…昨日の大浴場での影も、天井裏の影も…)
「父、上…。」
会いたくて堪らなかった父上の顔が、ぼやけて見える。
「麻流、これを飲むんだ!」
口元に、小瓶が押し当てられる。
「今ならまだ解毒できる!!」
顔を半分覆った父上の、口元のアルミのマスクに手を伸ばしながら、私は首を左右にふった。
「逝かせて、ください…このまま…。」
言いながら、父上のマスクを外す。
一度も見たことがない、一度は見たいと思っていた父上の素顔を、最期に一目だけでも見たかった。
父上は強力な色術の持ち主で、声を直接聞いたり視線を合わせるだけで、相手を色香で狂わせてしまう。
だからいつも顔を半分、アルミのマスクで覆ってその力を抑えていた。
唯一、その色術に全くかからない母上の前でだけ、全てを取り払うことができる。
父上にとって、母上は心の拠り所で闇に差し込む一閃の光なのだ。
父上なら、その光を失った絶望がわかるはず…。
初めて見る父上の素顔は、自分の父親と信じられないほど若く美しいままだった。
(私の兄と言っても、通用しそう…。)
父上は、49歳のはず…。
でもその姿は、私の2歳年上の楓月(かづき)兄上と同い年に見える若さと美貌だ。
「麻流、誤解だ!あいつの気持ちは変わってないから!!だから解毒薬を飲んでくれ!!!」
直接鼓膜に響く艶やかな低い声が、体の芯をざらりと撫で上げる。
「ぁ…。」
強烈な甘い痺れに思わず喘ぎ声をあげた時、王子が浴室から飛び出してきた。
「マル、どうし…っっ!!」
全裸の私を抱き、小瓶を唇に押し当てる見知らぬ男に、王子の瞳が一気につり上がる。
「貴様っ、マルに何をっ!」
王子が床に落ちていた自分の剣を素早く足で蹴り上げると、宙に浮いたそれを掴んで父上に切りかかる。
けれど、父上は私を抱いたまま、武器も抜かず王子に背を向けた。
瞬間、父上の背中の二本の刀の鞘に王子の剣がぶつかり、凄まじい金属音が響く。
「落ち着け、カレン王子。俺は花の都の王配(おうはい)、空(そら)だ。」
王子の手から、剣が落ちる。
「王配…マルの、父上…?」
次の瞬間、王子が床に手をついて土下座する。
「大変失礼致しました!」
けれど父上はそんな王子を無視し、かたく閉じた私の唇に小瓶を押し当てる。
「ほら!!麻流、解毒薬を飲むんだ!!」
そう言われても、もう私の唇も瞼も…全身が痙攣し、自力で動かすことができなくなっていた。
体が硬直し小刻みに震える私を抱きしめたまま、父上が土下座をしたままの王子をふり返る。
「そんなことしてる暇があったら、こいつを麻流に飲ませろ!!」
言いながら、恐ろしいほどの殺気を放つ。
その殺気に驚いた王子は飛び上がると父上から小瓶を受けとった。
「おまえの愛を失ったと絶望して、毒を飲んだんだ!」
(父上のこんなに狼狽する様子、初めて…。)
「毒…?」
王子の声が震えている。
作品名:②残念王子と闇のマル 作家名:しずか