平安の月
大人の女に成長した静香を笹だと気がつく村人はいなかった。そのため誰にも気づかれずに、こっそり生家にたどり着くことができた。
その突然の帰宅に両親は驚き、すっかり大人になって戻ってきた我が子をまじまじと見つめた。そして笹の話を聞くと、母親は笹を抱きしめ娘の苦労に涙したが、父親は高貴な身分の男の子どもを宿した娘の将来を案じて頭を抱えた。
とりあえず、笹は屋敷の奥の部屋で匿われることになった。笹が貴族の家に上がっていることは村人はみな知っていたので、身ごもって帰ってきたことが知れるのを怖れた。隠れて暮らす日々が続き、笹のお腹も目立ち始めた。
そんなある日、父が大事そうに書物を抱えてやって来た。それはこの村の長の家に代々伝わる秘伝の書だった。
そこには薬草の知恵が事細かに記してある。医学など存在しない時代、病にかかったら、祈祷師に祈ってもらうか、野山の薬草を煎じて飲むしか方法はない。そのため、どこの村にも祈祷師や、薬草の知恵を持った年寄りがいた。笹の家のように書物にまで残し、延々と引き継がれる知恵というのは珍しく、大変貴重なものだ。その薬草の知恵を、笹は父親から叩きこまれた。
そして月が満ち、笹はひっそりと女の子を産んだ。
その子が五歳になると、無情にも父親は笹にその子を連れて家を出るように告げた。
高貴な家柄の血を引いた子どもとわかれば、災いに巻き込まれないとも限らない。この家から遠ざけることこそが、愛しい我が子とかわいい孫の行く末を安全に導くと考えたからだ。
門外不出の薬草の知恵を授けた者を外へ出す、それこそが掟破りの父親の愛情だった。母子ふたり、つつがなく生きていってくれることを心から願ってのことだったが、笹にはそんな父親の想いはわからない。またも家を出されることになった自分の運命が、ただただ悲しかった。