盗賊王の花嫁―女神の玉座4―
アデルはアデルでなんらかの動きをもうすでにどこかで始めているのだとしたら。
藍李は自分の考えに焦燥を覚えながらも、すぐに振り払う。とにかく片付けるべきはジャロッカの件だ。
しかし、頭の隅に嫌な予感だけは残り続けた。
***
蘇芳の眠る部屋に特別なものはない。彼が眠るひとつの寝台に、箪笥に机。明かり取りの窓はなく、いつでも夜だった。
真っ暗な部屋に蝋燭ひとつだけで部屋に入ることが白雪は今より幼い頃は苦手だった。今でも慣れたかといえばそうでもなく、急いで寝台の側まで行って双子の片割れのような存在である蘇芳の顔を見て安堵するのだ。
「蘇芳」
名前を呼んでも返事がないことはいつものことだけれど、今日こそはという期待は一度も捨てられなかった。
蝋燭に照らされた蘇芳は食事のすらせずに眠り続けている。赤毛は肩口まで伸びたところでいつも切りそろえられて変わらない。
彼の瞳はどんな色だっただろうか。
燭台を寝台の脇に備え付けられた小さな机の上に置いて、白雪は暖かくも冷たくもない蘇芳の手を握る。
触れて、感情が揺れる。
瞳を閉じると自分の思考の中に何かが混ざり込んでいるのがわかる。耳元で囁かれているのと似た感覚。
さわさわと揺れる木々の葉擦れ。穏やかな波の音。霧雨。そんなささやかな音が自分の内側ですることに不快感はないがもどかしい。
何か言葉となって伝わってきそうなのに、つかみ取れない。時々感情が呼応して嬉しくなったり、寂しくなったり、不安になったりする。
「ここにいるわ。だから、ちゃんとお喋りしましょう」
いつかこの魂の片割れとも呼べる彼と、話したい。
そう、どんな声をしているのかすら知らない。産まれた頃からずっと一緒にいるはずなのに、知らないことが多すぎた。
「……どうしたの?」
不意に不安が胸に押し寄せて来て、すぐさま恐怖に変わる。
恐れているのは蘇芳だ。白雪は目を開いて、自分の心臓がばくばくと脈打つのを聞く。冷たい汗が噴き出して、唾を飲んだ。
誰かがこの部屋にいる。
暗闇がわだかまる場所に人の気配を感じる。
震える指で燭台を掴みその正体を見極めようとするものの、恐怖心が勝って体を動かせない。
「誰?」
蘇芳の手をぎゅっと掴み乾いた口で誰何すると、微かに笑う声がした。
知っている。この笑い方は耳覚えがあった。
「……アデル様」
名を口に出したとき闇が動いた。それを確かめたとき、握っていた蘇芳の手の感触がなくなった。
「いや、蘇芳。蘇芳!」
目を落とした寝台は空だった。
「どうして、アデル様。あの子をどこに!」
再び目を向けた暗闇に人の気配はなかった。その代わり背後で足音がひとつして、白雪は振り返る。
蝋燭の灯が消える。
白雪の意識もそこで途切れた――。
***
本局からの報告が届く頃、黒羽達はすでに鉱山に詰めていた。
少ないながらも妖魔がわき始めているということで、正午過ぎには目撃情報を元に四つの部隊に別れて妖魔の駆除にあたっている。
「このまま、夜営になりそうだな」
麓で黒羽は蛇の頭をもった四つ足の妖獣を切り捨て、山の向こうに日が傾き薄暗くなっている空を見上げる。
「そうですね。夜になればおそらくもっと増えるでしょう。とにかく、人里に出るのを防がなければ」
漓瑞が周辺に意識を研ぎ澄ませながら応える。
黒羽達は鉱山の中までは入っていない。麓で妖魔が人や家畜を襲わないように堰き止めることが第一で、深追いすることはない。
もうすぐ夜が来る。影の時間だ。
人の怖れや不安や寂しさを増長させる闇の中こそ妖魔達が活発に動き始める。
鬱蒼とした木々の合間を抜けて流れ込んで来る、乾いた熱い風に不快感を覚えて黒羽は目を細める。
すでに瘴気が皮膚に感じるほどたち上り始めていた。
「ここで神様が復活するのか……」
駆除活動中に藍李から届いたのは、鉱山に全てが集まっていることがあった。あまりにも簡素すぎる報せで、なにやら慌ただしさが透けて見えた。
「いやあ、まいりましたね。大丈夫言った手前、これはなあ」
アマン課長が先日道案内を頼んだ住人に言ったことを反省しながらやってくる。
「ここまでになるとは、あん時は分らなかったですから……」
かさりとアマン課長の背後の茂みが動いて、やたら尾の長い蜥蜴に似た妖魔が飛び出てくるが彼は動じることもなければそちらに目を向けることもなく剣を一閃させる。
(やっぱり強いなあ)
一応剣を構えてはいたものの、動くことなく終わった黒羽はアマン課長の動作に感心する。
「黒羽さん、群で来そうです」
漓瑞が手の甲から水を溢れさせつつ、茂みや木々の影に目を向ける。
「群だなあ」
忠告通り木の上やら茂みの上から毛のない四つ足の獣の形をした、仔猫ほどの妖獣がわらわらと襲いかかってくる。
青い炎であぶれば瞬く間に黒い靄にかわって妖魔達は消える。
どれもこれも強くはないが、この数の多さでは体力霊力の消耗に気をつけなければいけないだろう。
「大物出てくるとまずいか……」
まだまだ霊力に余裕があるとはいえまだ宵闇が迫る頃からこれではと、黒羽はひっそりとぼやく。
「神剣の応援もありますから、我々は妖魔の駆逐に専念しましょう。今の所、まんべんなく妖魔が出てるみたいで、ちょっと東側が手がたりないようなので私が行ってきます。引き続きここをお願いします。また夜になったら、状況に応じて配置など考えますので。では」
アマン課長はどうやら現況報告に来たらしく、黒羽と漓瑞に頭を下げて自分の持ち場へと戻っていった。
そして見る見る間に辺りは真っ暗になってきて、足下さえおぼつかないほどの暗闇に周囲が包まれる。中空には星と月がぽつぽつと見えていても、高く伸びた木々の枝葉が僅かな光さえ遮ってしまっていた。
少し後方へ目を向ければ野営が設置されている辺りに松明が灯って、そこだけ赤みが強い橙色の灯がぼうっと闇の中で浮いていた。
「少し後退しましょうか」
「そうだな……」
暗がりの方が感覚は鋭敏になるものの、地の利のない場所で周囲が見えないというのは危険すぎる。目が慣れてくるまでは、むやみに動かず退避場所を確認しておいた方がいい。
黒羽は小さな物音や気配を頼りに姿の見えない妖魔を斬りつつ、灯の方へと寄っていく。
だが、戻りかけた所で風が吹いた。
松明を吹き消すほどの突風だ。周囲は再び闇に沈み込む。少しでもと灯をと無意識のうちに空に目を向けるが、瞬いていた微かな星も、ほんの少し欠けた月も見当たらない。
「漓瑞」
視界が黒一色に塗りつぶされて何も見えない中、黒羽は漓瑞を呼ぶ。
「ここにいます」
返事が聞こえてほっとする。
「何が出てくんだか」
冥炎の柄をしっかりと握り込み、黒羽は皮膚で異変を捉えんとする。
しかし大きな音もなければ、風すら吹かない。近くにいる局員達の声も聞こえなかった。
そんな中、音もなく遠くに青い光がぽつりと浮かぶ。それはゆるやかに空へと昇っていく。
瞬く間に光は増えてまるで蛍火のように宙へ向かって飛んでいき、空を覆った。
初めて見るはぞの光景だというのに、妙な既視感があった。
「これは……地下水路」
作品名:盗賊王の花嫁―女神の玉座4― 作家名: