京都七景【第十五章】
「まあ、何だかミステリー仕立てで、おもしろいのね。この先が楽しみだわ」
「えへん、内容はともかく、語りはなかなかでしょう。ま、それはさておき、博覧会の西洋美術品を見てショックを受けた浅井は、日本が西洋に追いつくには百年以上かかるだろうし、帰朝しても施す手段が全くない、とまで絶望しています。そんなときビングの工房を訪ねた浅井は、ビングから図案と作品を見せてもらううちに、自分にもアールヌーヴォー式の図案ができるのではないか、と考え始めたのだと思います。さらに、こちらの方がいっそう重要ですが、工芸図案は丁度品や室内装飾など日常生活に利用する美術であるがゆえに、上質のものさえできれば、それを日々たくさんの人が目にすることにより、一般人の美術の鑑賞眼を高め、ひいては日本全体の美術水準を上げられるのではないか、とも考えたはずです。日本美術が影響を与えてヨーロッパに広まったアールヌーヴォー様式。浅井はそれを日本に逆輸入して、日本からも優れたアールヌーヴォーの工芸品を作り出せることを西欧に示し、旧弊な日本美術界を一新させ、日本美術の水準を上げようと考えたのではないかと僕は推測しています。
そうして、この時点で、実際にアールヌーヴォーの図案を描ける力のある日本人がいるとすれば、それは浅井忠以外にいなかったのではないか。僕なりの資格条件を上げて検討してみますね。
まず、アールヌーヴォーは単なる日本美術の模倣でなく、その意匠をよく消化した上で、西洋美術の文脈に表現した図案ですから、それを作るとなると、日本画と西洋画の両方に深く通じてなければならない。
浅井忠は合格です。八歳で日本画を習い、日本の西洋画家中、最も日本画がうまいと言われていましたから。しかも、パリでアールヌーヴォーの図案を見たとき、すぐにそれが元禄以前の日本美術の心持ちの雄大なところから来ていると見抜いている。
次に、アールヌーヴォー様式の実際が分かっていなければならない。
これも大丈夫です。博覧会のアールヌーヴォー館で実際の陳列品を見ただけでなく、その本家本元のサミュエル・ビングの工房で作品が仕上がるのをつぶさに見ている。しかも、その後グレー村近くの工房にたびたび出かけていってアールヌーヴォー様式で十種以上の図案を書き、陶器の絵付けまでやっている。
さらにもう一つ。アールヌーヴォー様式の特徴をつかんで、ある程度自在に図案を書きこなせなければならない。浅井は「まず、絵(西洋画のこと)が描けなければ図案など出来るものではない」との主張を持っていました。画家ならぬ身の僕には不案内ですが、イタリア近代絵画の巨匠フォンタネージから、西洋絵画の構図、配色、遠近法などなど、種々の基本を徹底的に叩き込まれていたからこその主張だと思います。日本のある美術史家が、浅井の日本画を見て「構図の形式に注意し、物の配列を模様らしくすること」に著しい特徴があると言ったのもうなずける。これは、西洋画の核心をよくつかんでいてこそできる技です。ここに、アールヌーヴォー様式の、ある種、極意を浅井が体得していたことがうかがわれます。だから、クリアー。
さて、ここまでお膳立てが揃いました。あとは最後の一つを当てはめるだけ。さあ、なんだと思いますか」
「中澤岩太校長からの京都招聘ですね」
「大当たりい。ただし、こうなるまでには、浅井自身にいろいろ葛藤があったものと僕は想像しています」
「カットウって、どういうことでしょう」
「招聘地が京都だから良かったものの、もし、それ以外なら、浅井の思いは十全には実現できなかったでしょうね」
「まあ、どうしてかしら。それじゃ、東京なら?」
「だめです。おそらく浅井に取っては最悪でしょうね」
「美術界の権力争いに巻き込まれてしまうから?」
「それもあります。でも、関連してもう一つ厄介なことが起きていたのではないかな」
「わあ、何ですか、それ?とっても気になるんですけど」
「でも、具体的な事件は何もないんですよ。浅井の心中を推し量って僕が想像することですから。真実かどうかの保証はできませんけど、聞いてみますか」
「もちろんよ。また何か斬新にして高雅なお話が聞けるんじゃないかと、わくわくしちゃうな。うふふ」
「困るな、からかわないでくださいよ。じゃ、ここからは僕の妄想ですから、くれぐれも割り引きして聞いてくださいね。
さっき、図案研究で日本から博覧会に来ていた福地という人の話をしました。浅井は、福地の住むアパートの一室に世話してもらい、福地の図案研究に同行します。そのときに工芸図案の面白さを知ったのではないかと思います。ビングに紹介してくれたのも福地でした。だから浅井からすると、福地は図案研究の大恩人なわけです。これだけなら別に問題はないのですが、実はこの福地氏、岡倉天心を東京美術学校校長および帝室博物館美術部長から追い落とした張本人でした。最初は天心にかわいがられて昇進の階段を上りますが、天心長期不在中の美校において、役職もわきまえずに権力を揮ったため、天心に疎まれ、美校を依願退職、その後、怪文書を発行して天心の職を奪い、自らは帝室博物館技芸員に納まるという策謀をやってのけた野心的な人物でもありました。
ところで目的のためには手段を選ばないこの人物も、図案研究には不思議と非常に熱心で、帰朝した一九〇一年、東京に日本図案会を立ち上げ、工芸図案の革新運動を起こそうと試みます。浅井も、以上のことはアパートの福地との雑談の中で、部分的には聞いていたかもしれない。だから、そういう人の恩義に預かると言うことが何を意味するのか、浅井にはよくわかっていたのではないでしょうか。帰朝して、東京に留まれば東京美術学校の権力争いに巻き込まれ、自分の画業や後進の育成に力をそそぐことは出来なくなるだろう。しかも今回、福地復一氏の世話になっているからには、東京に戻れば日本図案会の何らかの仕事を手伝わされるのは必定である。しかも、図案の道で福地氏の機嫌を損ねれば、どんな災いが降ってかかるか知れたものではない。だから、東京に残れば針の筵(むしろ)である。しかも日本美術の今後は絶望的ときている。いったい、自分の居場所はどこにあるのか。この時期、そういう煩悶を浅井は折々くり返していたのではないかと僕は想像します」
「読みが深いのねえ、納得しちゃう。それにしても忠様、かわいそうね」
「大丈夫、忠様は逆境に強いですから。これまでも逆風の中を生きて来ましたしね。で、そんなときに中澤と知り合い、鶴の一声がかかった。「図案科、色染科の教授として、ぜひ京都に来てほしい」
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学