小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

京都七景【第十五章】

INDEX|7ページ/10ページ|

次のページ前のページ
 

                                     九雲堂』
とまあ、こう書いてあるわけだ」
「うむ」
「はあ」
「ほう」
「なるほど」
「突然、ここだけ読まされても、おそらくみんなには何のことやら分からないだろうけど、僕にはここに、京都へ来た浅井忠の気持ちのすべてが出ていることがわかる。だから、大変貴重な資料なんだよ。それじゃ、話をつづけさせてもらうぜ。ここから最後までは、あと一息だ」
「さて、僕は彼女にも同じことを言った。この文章には京都に来た浅井忠の気持ちのすべてが出ていると」
「でも変ですね。達三さんへの手紙には京都に行って遊んで暮らしてしまう覚悟だと書いてあるのに。京都で大歓迎を受けて気が変わったんでしょうか」
「僕は違うと思いますね」
「まあ、ずいぶん確信がおありなのね」
「いえ、確信とまでは行きませんけど、いくつか重要な手がかりはあるんですよ」
「というと?」
「浅井はパリ滞在中に、万国博覧会について正岡子規(旧知の間柄でした)に手紙を二通書いています。それは『パリ消息』として雑誌「ホトトギス」にも掲載されました。手がかりはその一通目。パリに来てすぐ(一ヶ月後くらいに)書いたものです。その中で、博覧会に陳列された日本の美術品が、フランスおよび諸外国と見比べ、いかに貧弱かを目の前にし、自分は恥ずかしさで情けなくなるほどの激しいショックを受けたと書いています。そして、その理由も説明しています。例えば、日本画の場合、画風の全く対立する狩野派と四条派が、西洋画の間に置くと、どれも一様に無味淡白で注目を引かない。それは日本人が全体の構図に少しも注意を払わず、女の髪の毛や魚の鱗などという、部分の細かい筆遣いにばかり気を取られているからである。また西欧諸国が、今世紀(十九世紀)フランスを中心に流行した日本趣味(これをジャポネズリというのはご存知でしょう)の意匠(デザインですね)から八、九割も利用しているのに、日本品より遥かに上手な陶器などを作っているところはあっけに取られるほどで、それは西洋人の目のつけ所が優れていて、元禄以前の日本美術の心持ちの雄大なところに着眼しているからである。それでも、日本品の中では織物が一番いいように見える。ところが残念なことに、色の配合や彩色の取り合わせがまずいから、これについては学問的な研究が必要であるとか、そんな風なことを言っています。浅井は相当なショックを受けながらも、各分野でどこがどう悪いかを丁寧にそして鋭く分析しています。つまり、日本がこれから西欧先進諸国に向けて何をしたらいいか、浅井は痛切に感じていた。ここが重要なところです」
「はい」と彼女が真剣な返事をした。

「どうかしましたか?返事なんかして」僕は驚いて彼女にたずねた。

「ごめんなさい、あなたがあまり真剣に話すものだから、何だか自分が大学の白熱講義を受けている学生みたいな気がして、つい、あいづちを打ってしまいました。ふふふふ。失礼しました。でも、本当に浅井忠がお好きなんですね」
「ええ、焦がれるほどに。でも、あなたに誤解されそうだから、言い直します。憧れるほどに。まあ、それはおくとして、話を本題に戻しましょう」
「はい。…いけない、また出ちゃった」彼女は頬を赤くした。

「で、何が重要かというと、このチラシの文句がそのまま、子規に送った第一信への浅井自身の回答になっているということです。その対応するところを、いくつかざっと確認してみますね。
 一つ。博覧会に陳列された日本美術品の貧弱さに恥ずかしくなるほどの激しいショックを受けたことに対し…京都の陶器の名声を回復せんがため、研究所を設け、ここ数年、実験を重ね、精良なる品質のものを作り得た。
二つ。日本人が全体の構図に注意を払わず、細部にばかり気を取られていることに対し…今回美術大家の賛助を得て斬新にして高雅なる図案、意匠を作った。
三つ。西欧諸国が日本のデザインの八、九割を使って日本品より遥かに上手な陶器を作っていることに対し…質文相待ちて優美高雅なる珍品を製造し、いささか新興国の面目を全うし(最近発展しつつある日本の優れた存在を示し、ということですかね)、京都の名声をして益々四方(世界中ということでしょう)に輝かしめんことを期待する。
そして最後。ここが特にいい。実物ご一覧の上、世間ある処のものと自ら撰を異にしたるをお認めありて、と来る。こちらはすでにそういう物を作ったのだという、この矜持(きょうじ)。浅井忠の確かな自信と誇りを感じますね。じつにいい」
「ほんとうに。京都で培ってきた自信のようなものが感じられますね。それにしても浅井忠様はいつ頃からこのことを考えていたんでしょう。京都に来る前だとしても、京都に来ることが決まってからでないといけないわけだし…」
「そこは二つに分けて考えるといいのじゃないかと僕は思っています。つまり、日本美術の将来をどうするかということと京都に行くということは、後から見ると分ち難く結びついていますが、本来は別々なことだったのではないかと。これは浅井が京都高等工芸の図案科、色染科の教授として招聘されたという事実から考えると、不思議なことに逆によく分かって来る。浅井と図案科。僕は最初に違和感がありました。どうして西洋画科でなく図案科なのか。でも調べていくうちに分かりました。浅井は、確かに万国博覧会で数々のフランス絵画の傑作を見て強い印象を受けたには違いない。しかし、それ以上に、サミュエル・ビングという当代きっての図案家兼美術商の出した「アール・ヌーヴォー館」の展示物にすっかり魅了されてしまった。アール・ヌーヴォーと言えば、たぶんご存知のように、日本の陶器、陶芸、調度、室内装飾、日本画(特に浮世絵)などが大きく影響したヨーロッパの、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての、一大芸術様式です。その様式の推進役がこのサミュエル・ビングでした。浅井は、一九〇〇年の七月に同宿の福地復一(ふくちまたいち、元東京美術学校、図案科主任教授、図案研究のため日本から派遣されていました)と、ビングの工房を訪ね、ビングが日本美術の傑出した鑑賞眼を持っていることに驚くとともに、優れた図案家としてたくさんの職人を抱え、様々な分野の工芸品の製造を自ら指図し、出来上がった物を工房の真ん中に陳列しているところは、実にうらやましい人生で、おもしろく金儲けができて愉快なことだと、子規への第二信で報告している。この時はまだ、浅井は、高等工芸校長の中澤とは、少なくとも親しくなってはいない。ならば、浅井の図案への興味はどこから生じたのか。
 ここからが僕の仮説です。浅井のパリでの様子を少し詳しく見て行くと、さっき出て来た福地氏との行動が多いことに気づきます。福地氏は図案研究に来ているのだから、博覧会だけでなくパリ市内の美術館、博物館、近郊の陶芸工房などもせっせと見に出かける。それに同行する浅井自身も、工芸図案に強く引かれ始めたのではないでしょうか。極めつけは、福地氏を介して今をときめく図案家、サミュエル・ビングを知ったことでした。このとき浅井はアールヌーヴォーの工芸図案について、あることに気づいたのではないかと思われます」
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学