京都七景【第十五章】
「えー、長くなるの。これ以上長くなるのやだなあ」と、野上(わたしです)が駄々をこねる。
「大丈夫、大丈夫、実際より大分約(つづ)めて話すから、ごねるのは仕上げを聞いてからにしてくれよ」と神岡が予防線を張る。
「そこで、僕はだいたい次のように説明した。
「実は、パリ万国博覧会には、京都高等工芸学校設立の命を受けた校長中澤岩太も開学準備のため、視察に来ていました。浅井と中澤は、一九〇〇年の秋にパリで出会い、美術工芸に関する意見ですぐに意気投合しました。中澤は浅井に教授としてぜひ京都に来てほしいと申し出る。浅井は、ある決意をもってこれに応じた。この『ある決意』が、僕の明らかにしたいことなんです」
「というと?」
「浅井はパリに来る二年前、東京美術学校の西洋画科第二教室教授に抜擢されました。ちなみに第一教室教授は黒田清輝です。実はこの年の春、東京美術学校の校長岡倉天心が、上司九鬼隆一男爵の妻波津子との不倫を暴かれ、そのスキャンダルで失脚するという事件が起きました。岡倉天心といえば、東京美術学校に日本画擁護のため西洋画科を作らせず、学生にも古代律令制の官服を模した制服を着せるなど、絶大な権力を揮った国粋主義的人物です。この人物が失脚したことにより、学内に騒動や波紋が広がり、なかなか混乱が収まらない時期でしたが、その分おそらく風通しも良くなって来ていたのでしょう。在野の浅井忠が教授に任命されたのです。
この頃、明治の洋画界は二つに別れていました。特にジャーナリズムは、西欧に留学を終えて黒田清輝の周りに集まった新帰朝者たちを新派、それ以前に活動していた洋画家たちの団体、明治美術会を旧派として騒ぎ立て、対立をあおるような記事も書きました。そうした中、新派の洋画教室しかなかった東京美術学校に両派の釣り合いを取ろうと、旧派の代表格である浅井忠が教授に選ばれたというわけです。これには、いい意味で黒田清輝の政治力が働いていたのだと思われます。ところが、両派の画家同士は互いに交流して一緒に絵を描いたりもしていましたから、新派・旧派にそれほど深刻な対立があったわけでもなさそうです。ただ、フランス印象派の影響を受けた、黒田清輝の清新な画風が、彼の政治力と相まって、その後の絵画の主流を新派に決したことが旧派の不運なところでした。もっとも、浅井忠は教授に選ばれたことを必ずしも喜んではいなかったと、僕は思いますね」
「まあ、それはどうしてでしょう?美校(東京美術学校の略称)の教授に選ばれるのは、大変名誉なことだと思いますけど」
「僕も、それはそうだと思います。ですが、浅井は画業に人間の思惑や欲望や政治が入り込むことをひどく嫌ったのではないでしょうか。彼はパリから弟の達三にこんな手紙を書いています。〈…日本人は自分より偉い人をこしらえるのが嫌いな人種だから、偉い人が出るとみんなでよってたかっていじめてだめにしてしまう。ことに美術家や文学者はその最たる者だから、帰国したら、自分はすべて消極的で何にもしないで社会から退いて遊んで暮らしてしまう覚悟でいる。それゆえ京都に引退して陶器でもいじくって過ごそうと思って美校を辞任することにした〉と。浅井は日本に絶望していたのだと思います。特に、政治が絡む東京の美術学校には」
「まあ、それで京都に行ってしまったのね」
「ところが、確かに京都には行ったけれども、どうも社会から退いて遊んで暮らした形跡がない。高等工芸で授業をするかたわら、京都の複数の洋画家の会に呼ばれて話をする。内国勧業博覧会の監・審査官には命ぜられる。いろいろな展覧会の審査員も頼まれる。教科書だって執筆する。陶器や漆器の研究団体まで設立する。自宅に洋画研究所を設立して続々とやってくる後進たちの指導に当たる。その間を縫って写生旅行に出かける。もう、あげたらきりがない。あげくの果てに東宮御所から壁掛けの下絵の注文を受けて体調を崩す。そして死の直前、磯田多佳女にすすめて、陶器店『九雲堂』を開かせる。ここまでが五年の出来事です。どうです、めまぐるしいでしょう?これが京都に隠居に来たじいさん(失礼、言葉の彩です。明治の平均寿命は五〇年なので悪く取らないでください、僕個人は壮年だと思ってます)のすることですか。僕は浅井忠の覚悟に疑問を覚えます」
「あのう、今気がついたんですけど、実は、谷崎の『磯田多佳女』の中に、九雲堂開店に向けての浅井先生とお多佳さんのやり取りや宣伝用のチラシのことが書かれていたんです。そのチラシの文句がちょっとおもしろかったので、そのままメモに取っておいたのですけど、お読みになります?何かの参考になるかも」と、彼女がいたずらっぽく僕を見る。
「ええ、そんなのがあるんですか。ぜひ読ませてください。ぜひ」
僕は見たことのない資料があるのを知って、うれしくてその場で飛び跳ねそうになった。彼女は大きなバッグの中からA6判くらいのノートを取り出し、問題のページを開いて見せてくれる。僕は息を呑んで書いてある文字を目で追った。最後まで読み終わったとき、喜びがこみ上げて来た。
「これです。これこそ僕が探していたものだ。最後になってこんな重要な資料に巡り会えるとは、何て僕は運がいいんだろう。そして、あなたは何て素敵な人なんでしょう。あなたこそ、そう言って失礼でなければ、僕の運命の女神ですよ。もう感謝してもしきれないくらいだ。本当に、ありがとう」
「そんなに大切なものだったとは夢にも思わなかったわ。わたしの方こそびっくりよ。でも、それなら、今日の感謝の印にこのメモを献呈させていただきますね」そういって、彼女はメモしたページをすっと破いて、差し出した。僕は天にも上る心地がしたね。メモの内容もさることながら、彼女の丁寧な筆跡が僕には好ましく思われたからだ。
「うーん、さすが神岡。見るところが違うな。で、そのメモには何と書いてあったんだい」と大山が真剣な顔つきをする。目が知的好奇心に輝いている。
「知りたいか」と神山がこれまたいたずらっぽい顔をする。
「知りたい!」とみんなの声が一斉に響いた。
「しょうがないなあ」そう言いながら、神岡は嬉しそうに書棚の方へ立って行き、浅井忠の画集を出してページをぱらぱらと繰った。すると、そこからはらりと落ちたものがある。
「おお、これだ、これだ」神岡は大事そうにその紙片を拾った。
「では、読むぜ。『京都の陶器とて名声の高きにも係わらず、さて改良進歩の跡なく、旧型模倣に止まって陳套(ちんとう、ありふれたもの)なるものとなり、或は又輸出向けの卑俗なるものとなり、大方の愛顧に酬(むく)うるに足らず、これ弊(へい)堂の深く憾(うら)みとなす処にして微力これを恢復(回復)せんことを欲し、試験を重ぬること茲(ここ)に数年、幸に精良なる品質を作ることを得たれば、今回美術諸大家の賛助を得て斬新にして高雅なる意匠図案によりて、質、文(しつ、ぶん)相待ちて優美高雅なる珍品を製造し聊(いささ)か新興国の面目を全うし、京都の名声をして益々四方に輝かしめんことを期す、希くは続々御来堂ありて、実物御一覧の上、世間ある処のものと自ら其撰を異にしたることを御認めありて、御愛顧の栄を賜わらんことを乞う
明治四十年九月
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学