京都七景【第十五章】
「あるとき、その松子夫人が妊娠していることが分かったの。もちろん松子夫人は子どもが欲しかったので生みたいって言ったわけね。そしたら潤一郎は、〈きみは私のミューズ(詩の女神)なのに、子持ちの母になったら(つまり、ふつうの人間になったらということね)、きみの周りに漂っている私の詩想や夢がきえて、私の創作力が衰え、何もかけなくなってしまう〉と言って中絶するように求め、松子夫人は泣く泣くそれに従ったということらしいわ。なんて自分勝手な男なんでしょう。まあ、ほかに計り知れない事情はいろいろあったことと思うけれど、松子夫人が後々まで後悔していたことは確かなようね。そういうわけだから、わたし、尊敬はできないの。ただ、今回のお墓参りで楽しみにしていることが一つだけあるんですけど、わかります?ちょっと、難度が高いわよ」
「いや、全く。想像さえつきませんね」
「実はね、谷崎潤一郎って、若い女性の格好のいい足が好きだったようなの。だから、小説や日記なんかを読んでいると、自分が死んだら、女性の足を墓石にして、永遠にその足の下に踏みつけられていたいって書いてあるのよ。だから、どんな墓石なんだろうって、それだけは知りたくて。何だか、わくわくしちゃうわね」
「わかりました。じゃ、さっそく行ってみましょうか」僕は話を打ち切るようにして、彼女を促した。
谷崎潤一郎の墓は思いのほか早く見つけられ、僕たちは、それこそささっとお参りを済ませて再び法然院の門前に立った。彼女は墓石を見てからずっと無言のままだった。僕は言葉をかけたものかどうか、ためらわれたが、ええい、ままよ、と重苦しい沈黙を払うべく彼女に声をかけた。
「残念でしたね、墓石。足の形じゃなくて」
「あら、よかったのよ、足の形じゃなくて。もし、足の形をしていたら、どうしようってずっと考えていたの。どう反応すればいいんだろうって。きれいなおみ足ですね、なんて言ったら、それこそ、見せ物じゃないって、谷崎先生の不興を買って、お墓参りにならないでしょうし、手を合わせてこっそり、重くないですか、なんて聞くのも失礼だし、まるで野外彫刻でも見るように、へえ、これが最近噂の女性の足形墓石ですか、なんてジロジロ墓石の周りを見て歩くのも罰当たりな感じだし。そんなことを考えていたら落ち着かなくなっちゃって。だから、普通の自然石なのを見たときは、こころからほっとして、なんだか体から力が抜けてしまったというわけ。でもこれで安心しました。だって、松子夫人が亡くなる時に夫と一緒の墓に入れてほしいって頼んで入れてもらったそうだから。もし、墓石が女性の足形だったりしたら、松子夫人がその足に嫉妬して落ち着けないんじゃないかと心配だったの。でも、良かったわ、谷崎先生が常識を心得ていて。これで谷崎御夫妻もご円満だわね」
「なあんだ、そういうことでしたか。ぼくはまた、予想が外れてがっかりしているのかと思った」
「いいえ、その逆。予想が外れて、本当によかったわ。なんだか、ほっとしたら、おなかがすいてきちゃった。それに足も少し痛むので、この辺で休憩して、今日の感謝の印に一緒にお食事でもつきあってくださいます?」
「そりゃ、光栄ですね。でも、食事までおごってもらうのは、ちょっと図々しいかな。そんなにたいしたこともしてませんし」
「いいえ、図々しいのは、わたしの方よ。身から出たさびなのに、こんなに長時間案内していただき、その上、修論の展開を大きく左右する貴重なヒントまでくださって、大助かりだわ。本当に感謝しています。ですから、遠慮しないでくださいね」
「分かりました。それじゃ、どうでしょう。足も痛いことですし、早く休憩を取った方がいいと思いますから、この下の哲学の道に出て、一番最初に見つけた店に入ることにしては。その店が、お食事処なら、喜んでおごってもらいます。もし、喫茶店なら、メニューに応じて飲み物と食べ物を一つずつというのは?」
「まあ、遠慮深い上に、親切なのね。わたしより若いのに何でそんなに人間ができているのかしら。わたしのほうが恥ずかしいくらい」
「俺も恥ずかしいうえに、むずがゆいくらいだ。神岡ってそんな人間だったかい」と堀井が疑義を呈する。
「おれも同感。そんな神岡、見たことないぞー」と私が加勢をする。
「自分もにわかには信じられないな。二重人格じゃないだろうな」と露野が懐疑的な声をだす。
「女性には優しく丁寧に、が僕のモットーなのさ、知らなかったのか?」と動じる気配はない。さすがに仲間内のプレイボーイだけのことはある(わたくし、野上、勉強になります)。
「まあ、まあ、話は佳境に入って来たようだから、冷やかすのは止めて先へ進めてもらおうぜ」と、やはり、大局を見る大山が話を促した。
「そこで、法然院の前から下って疎水を渡り、哲学の道に入って銀閣寺の方へ歩きだしたが、食事ができるような店が見当たらない。女性小物店や高級料亭はあるのだが、適当な店は見つからない。困ったなと見回しているうちに、
「ねえ、左の一段下がったところに店があるようよ。行ってみましょうか」と彼女が店らしきものを見つけたので、さっそく行って見ると、そこはなんと『甘味処』であった。
さて、彼女は、たいていの男性は甘味処が苦手だろうと思ったらしく、
「じゃ、次の店を探しましょうか」と、先へ進もうとした。僕は、誤解を解くべく、大急ぎで弁明をした。
「僕、じつは甘党なんです。もし、お嫌でなければ、ここ、僕にはベストなんですけど」
「まあ、そうだったの。人は見かけによらないと言うけれど、あなたって本当に見かけによらないのね。ふふふ。でも、その実、わたしも甘いものが大好きなんだから、人のことは笑えないわね。ごめんなさい。じゃ、入りましょうか」そう言うと彼女は嬉しそうに先に立って入っていった。僕は、すぐその後に続いた。
二人とも長時間呑まず喰わずで墓参りをしていたものだから、さすがに疲れが出たものとみえ、とりあえず冷たいソフトクリームで疲労と暑さをいやし、口直しの抹茶で心を静め、彼女が茶蕎麦セットA(アンミツと茶蕎麦のセットなり)、僕が茶蕎麦セットB(善哉と茶蕎麦のセットなり。京都で善哉に焼いた四角い餅入りは珍しかりき。なかなかの美味と覚ゆ)を食べる頃には心に余裕もできて、再び自然に会話がはずむようになった。僕は食事の終わりが近づくにつれ、彼女との縁(えにし)も、ついにここで終わるのかと、いよいよやるせない心が、ますます重くわが胸を締めつけるのであった。
「おっ、にわか恋愛小説家だな」と、わたしがついうっかり口をすべらせる。
「しっ」と大山が恐い顔を私に向ける。わたしは、へへ、と頭をかいた。
「だが、僕も自分の役目の終わりは心得ているつもりだから、これ以上未練がましくするのは本意じゃない。ここはやはり、さっと切り上げ、潔く姿を消すのが礼儀と思った。
僕は言った。
「どうやらこれで、お墓参りも無事終了のようですから、この辺でそろそろお暇させていただいていいでしょうか」
「まあ、やはり何か御用があったのね。それなのにちっとも気がつかないなんて。ほんとにわたしって鈍感だわ」
「いいえ、用事は何もありませんよ」
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学