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京都七景【第十五章】

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「あら、何がでしょう?」
「あなたこそ、浅井忠と磯田多佳女が知り合いだとわかっているなら、二人のなれ初めぐらい、知っててもよさそうですけど」
「ああ、なるほどね。そう言われてもしかたなし、か。じゃ、もう、正直に話しますね。実はわたし、磯田多佳女のことは、恥ずかしながら、ついこの間まで何も知らなかったの。ところが一週間くらい前に、たまたま高浜虚子の「昔薊(むかしあざみ)」という随筆を読んでいたら、京都の祇園に多佳女という有名な文学芸者がいて、それがどういう縁か、その頃、京都高等工芸学校教授だった浅井忠画伯の後押しで四条通に陶芸品の店を開き、画伯の図案による陶器や漆器を売っていたと書いてあるでしょう、これはおもしろい、もしかしたら多佳女の一代記が書けるんじゃないかって思ったわけ。ついでに谷崎潤一郎が磯田多佳女について別にまとまった文章を書いていることまでわかったものだから、何かこう、暗闇で糸口をつかんだみたいで、矢も楯もたまらず(もの言いが古くてごめんなさい)、大学の図書館に駆けつけ、谷崎潤一郎全集をあたったら、確かに第十六巻の目次に「磯田多佳女のこと」という文章があったのよ。見つけた時はもう、うれしくてわが身の幸運を虚子様に感謝したわ。さっそく、ノートをとりながら読んでいくと、さらに詳しいことがわかって来た。多佳女は名を「たか」といい、明治十二年(一八七九年)に祇園の大友(だいとも)というお茶屋に生まれ、最初は芸妓として出ていたけれど、二十代半ば過ぎに廃籍したこと。幼い頃より読書の趣味が深く、尾崎紅葉の作品は全部読んでいたこと。また、文芸の趣味に憧れ、歌、俳句、書、などはすべてその道の専門家に習い、特に絵は浅井忠画伯にもおそわったこと。また、文章も良くし、谷崎自身もその文才をほめていること。さらに、極めつけは、晩年の漱石とも交際があったこと。大正四年(一九一五年)の三月二十日頃から四月十六日まで京都に滞在した漱石は、初めて会った多佳女のことが大変気に入り、宿と多佳女の店を行き来している間に、持病の胃痛をおこし、多佳女の店で二晩寝込んで、お世話になったそうよ。といった具合に、知りたいことが次から次へ山ほど出て来てね、もう、有頂天になっちゃった。その感謝を込めて今日お墓参りをしているというわけなの。わかっていただけます?」
「ええ、もちろんです。熱意のほどは十分伝わって来ますから」
「本当に感謝しています」そう言うと彼女は深く礼をした。
「ところで、長く立ち話をして、足が疲れて来ませんか」
「ええ、少し。それじゃ、タクシーを拾って、旅をいそぎましょうか」

 僕たちは南禅寺の門前で、人待ちしているタクシーに乗り込み、最終目的地、法然院へと向かった。
 ところが、タクシーを降りて法然院の門前に立つと、どういうわけか山門は堅く閉ざされ、押せども引けども、びくとも動く気配がない。へんだな、時刻が過ぎてしまったのかと時計を見たが、午後の四時を少し回ったところである。閉門までには、まだ少し間があるはずだが。おかしい。そのとき、脇で彼女のびっくりしたような声が響いた。

「うわあ、何てことしちゃったんだろう、わたし。終了時間が午後四時になってる。しかも伽藍の中は春と秋だけの特別公開だし。ああ、もはや、お手上げだわ。二重のショック!これじゃ、いくらおっちょこちょいの私だって立ち直れそうにないわね」と、彼女は案内板を見ながら、その場にしゃがみ込んでしまった。

「おかしいな、京都の寺社は四時半前後の入場制限が普通なんですけど。ここまで早いとは知らなかった。気がつかなくてすみませんでした」

 僕は彼女の姿に、何だか悪いことでもしたような気がして、思わず謝った。

「いえ、いえ、あなたは何も悪くないわ。わたしの方こそごめんなさいね。せっかく純然たる散歩の午後を、こんな面倒なことにつき合わせてしまって。しかも、助けていただいているのに、まさかの時間切れでゲームセットだなんて。これじゃ研究者の風下にも立たせてもらえないわね。ああ、いやだ、どうしよう、本当に自己嫌悪に陥ってきちゃった」
「あきらめちゃだめですよ。まだ手がないわけじゃありませんから。たしか谷崎潤一郎のお墓参りができればいいんですよね」
「ええ、それさえできれば。でも、門がしまっていて入ることはできませんし」
「でも、ほら反対側の小高いところに少し墓石が見えているでしょう。たぶんあれが墓地ですよ。だって、墓地が毎日四時にしまっていたら、お墓参りに支障が出て、一般の利用者から苦情が出るに決まっています。だから、墓地は別区画になっていて一般の参拝者の出入りは普段から自由なはずだと思いますね」
「まあ、あなたって、頭いいのね。またまた感心しちゃった。なんか、元気が出て来たみたい。どうもありがとう。でも、じゃ、どうして金地院は入れなかったのかしら」
「僕も、そのことを考えていたんです。あれは観光客が間違って入らないようにしてあったんじゃないかな。お墓参り用には別の入り口があるんだろうと、今は思います」
「さすがね、確かに理にかなっている。うーん、納得しちゃうな」
「じゃ、お墓参りに行きましょうか」
「ええ、そうしましょう。今度はご迷惑にならないよう、ささっと終わらせますから、よろしくね」
「ささっとでいいんですか」
「ええ、ささっとでいいの」
「龍馬様や忠様とは、えらい違いですね。それはまたどうしてですか」
「お聞きになりたい?」
「ええ、聞きたいです。でも、差し障りがあるようならやめます」
「うーん、差し障りはあるんだけど、誰かに聞いてもらいたい気もするのよね。でも何だか大人げなくて恥ずかしい気もするし、でも放っておけない、許せない、っていう憤りも感じるし。わかりました。この際だから言っちゃいます」

 やや気落ちして疲れていた彼女の顔が、すっと引き締まった。僕は、その思い詰めた、侵し難い表情に息をのんだ。

「わたし、谷崎潤一郎があまり好きじゃないんです。もちろん磯田多佳女のことを書き残してくれたことには 大、大、大感謝しています。また、小説家として文豪と呼ばれるに値する、優れた作品群を書いたことにも感服しています。でも、人間として、特に女性に対する一男性として、わたしは尊敬できません。女性を自分の主人として一段上に崇拝し、自分は主人の召使いとして奉仕するかに見せながら、その実、自分の筋書き通りにその女性に役割を務めさせるという、女性の意志を無視した、屈折した女性支配欲があるように思えてならないの。それは、あの有名な「痴人の愛」にも出てくるけれど、一番グロテスクな形は、晩年の「夢の浮橋」の中だと思う。よかったら読んでみてね。いやかもしれないけど。でもそれだけじゃないの。実際の生活にもその例があるのよ。何人目かの奥さんで松子さんという女性がいるのはご存知?」
「ええ、知ってます。有名ですから」
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学