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京都七景【第十五章】

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「そうね、その道では有名だと思うわ。でも知る人ぞ知る、かな」
「女性ですよね」
「うーん、研究対象は女性なんだけれど、なぜか、お墓が男性なのよね。だから浅井忠様と法然院の男性二人に共通して関係する女性。さて、誰でしょう?」
「うーむ、これは難問だな。浅井忠について答えられたとしても、法然院の男性が誰だか分からないうちは無理です。誰なんですか。法然院の男性とは」
「さあ。当ててくださいな」
「法然院か、自信ないなあ。お参りに言った事もないし、噂で人から聞いたことはあるが確証はないしなあ。よし、それじゃ、小説家の谷崎潤一郎」
「まあ、大正解。よく知っていたわね」彼女は驚いて感心したが、僕が知っていたことがなんだかうれしそうにも見えた。

「神岡くん、私情を挟んでの解説はよくないな」堀井が失恋話ともつかぬ神岡の話に不満の色を見せる。

「まあ、いいじゃないか。恋愛も失恋も誤解した私情から生まれる。この私情が後で命取りになるんだがな。まあ、順調な滑り出しさ。だから、まあ、寛容に、寛容に」と、大山が堀井をなだめにかかる。堀井もわたしも恋愛の成功経験がないものだから、ついつい神岡に敏感に反応してしまう。自重、慎重、謹聴(わたしの自戒です)。

「じゃあ、続けるよ。彼女は、僕が正解を出したものだから、『では、浅井忠様と谷崎潤一郎に共通する女性は誰か』と再び謎をかけて来た。

「全然分かりませんね。たぶんご存知でしょうけど、谷崎潤一郎には、関係した女性が多過ぎて誰に絞ったらいいか見当がつかないし、逆に浅井忠には浮いたうわさ一つない。いや、待てよ。ということは、浅井忠側から女性を探すのが一番手っ取り早いということか…うーん、そうか、なるほど、なるほど、そう来たか。よし、よし、これでだいたい見当がつきましたよ。それって、もしかして磯田多佳という女性じゃありませんか」
「まあ、どうしてわかったの。今度はきっとわからないだろうと思っていたのに。さっきから当ててばかり。何だかくやしいな。ライバル心がわいてきちゃった。でも、どうしてそんなによく知ってるの」
「僕が講義に出ない、ありきたりの学生だと思って、見くびっていたでしょう」
「あら、そんな失礼なこと思ってないわ。渋江抽斎の目のつけ所なんて、なかなかすてきだもの」
「それはどうも。お褒めに預かり痛み入ります。じゃ、種明かしをしましょうか。じつは僕、浅井忠にシシュクしてましてね」
「シシュク?シシュクって、あの、先生として慕い学ぶという意味の「私淑」?」
「ええ、その私淑です。浅井忠はただ絵に優れていただけでなく、人格的にも、人生に対する態度においても、優れていました。それが、調べていくうちにだんだん分かって来たんです。だから、今では浅井忠がどんな志を持ち、どんな身の処し方をして人生を送ったのか、その一分一秒までも解明したいと思っています」
「まあ、それって、漱石研究家の荒正人(あらまさひと)さんみたいね」
「え、わかりますか、さすがだなあ。その件についてはちょっとしたエピソードがあるんですけど、きいてもらえますか」
「ええ、もちろんよ。また何か新しいことが伺えそうでわくわくするわ」
「実は、一九〇〇年に浅井忠はパリで漱石に会っていましてね パリは当時、万国博覧会の開催中。浅井は博覧会の臨時博覧会審査官として日本から派遣されていました。そこへ、英国留学に向かう途中の漱石が立寄り、一緒にパリ万国博覧会を見に行ったのです。僕はその時のことが知りたくて、浅井忠側の資料を探したんですが、どうも思わしい資料が見つかりません。そこで漱石側からも調べようと思っていたとき、たまたま本屋の店先に荒正人の『漱石研究年表』を見つけました。年表にしては分厚すぎるなと不思議に思いながら手に取ってページを繰ると、もはや目が離せなくなりました。
 いやあ、参りましたね。漱石の誕生から死まで、一年毎に、何月何日の何時に何をしたかを、まさに漱石を追いつめるように調べ上げて書いている。その鬼気迫る情熱と執念には敬服するしかありませんでした。おかげで、僕の疑問もすっかり解けましたよ。というわけで、僕も浅井忠を通して漱石研究家・荒正人の感化を受けてしまったというわけです」
「そんなに詳しかったのね、あの年表。わたしも一冊持ってますけど、あまり見たことがなかったの。漱石の基本文献さえ押さえていないなんて、これじゃとても明治文化の研究者なんて言えやしないわね。あーあ、自己嫌悪に陥っちゃう。でも、いいわ、それは帰ってからきちんと反省することにします。ところで、もうしわけないけれど、基本的な質問をしてもいいかしら」
「ええ、かまいませんよ、何なりと」
「それじゃ、お言葉に甘えさせていただきますね。
 では、一つ目の質問。あなたはどうしてそこまで熱心に浅井忠様を研究しているの?
 二つ目。浅井忠様と磯田多佳女(これ谷崎潤一郎の呼び方の受け売り)はどうして知り合うようになったのかしら。知ってたらぜひ教えてください。お願いします。以上」
「なるほど、分かりました。お答えしようじゃないですか。まず、一つ目ですけど、僕が浅井忠を知ったのは高校時代の美術の教科書からです。明治洋画の巨匠として浅井忠と黒田清輝の作品が紹介され、見開きのページに載っていました。浅井忠が左側で、確か「グレーの橋」(橋が灰色なのでこう呼ぶのだろうと勝手に思ってましたけど、実はフランスのグレー村にかかる橋のことでした、われながら情けないですわ、ハハハハハ)を見て感銘を受け、これを本当に日本人が描いたのかと、にわかには信じられませんでした。だって、遠近法がしっかりして画面の構成に揺るぎがなく、画中の空気の質感、物体の重さや木々のそよぎまで描かれ、人間生活に共感する詩情のようなものが漂っている。僕には、西洋の本物の画家の絵に見えるほど浅井忠の画格は高いものに思えました。一方、右側の黒田の「湖畔」には美人画以上のものを感じなかった。だから、なぜ黒田の洋画がその後、近代日本の洋画の主流になって行ったのか、僕にはちっとも分かりません。浅井忠はまだ十分正当に評価されていないのではないか、僕はそう思い続けて来ました。そんなあるとき、加藤周一(解説は要らないと思いますけど戦後最高の知性を持つ評論家の一人。名著『羊の歌』を読んでいない仏文科の学生はモグリだと言われた、かな?)の『芸術論集』を読んでいると次の様な一節に出会ったのです。〈浅井忠が習得した油絵は、―しかし何という高さにおいて習得したことであろう、以後油絵においてその水準に及ぶ者は少なかった!〉現代最高の知性、加藤周一がきちんと評価しているじゃないですか!僕はうれしくて天にも昇る心地がしました」
「まあ。優れた画家だとは聞いていましたけれど、それ以上だったのね。何だかこっそり重大な秘密を聞かされたみたいで私もうれしくなって来ちゃった。そんな大画家に関わる女性の研究ができるんですもの、これから浅井様の作品を見るのがますます楽しくなりそうね。あなたのおかげだわ、本当にありがとう。でも、そんな大画家と磯田多佳女はどうやって知り会ったのかしら」
「それについては、たぶんお答えできると思いますよ。でも、変ですね」
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学