京都七景【第十五章】
【第十五章 再び墓を探す】
「さて、これで堀井の話も終わったか。となると、残りは野上と露野だな」そう言うと、大山は、ふううっ、と尾を引くため息をついて両手をあげ、大きく伸びをした。つられて私も伸びをした。どうやら、話疲れならぬ聴き疲れがして来たようだ。
「いや、僕がまだ終わっていないぜ」と、神岡がひざを乗り出してくる。最後まで話さずにはおかないぞという気迫が声にこもっている。他の四人はお互いに顔を見合わせた。
「まあ、そうには違いないが、大文字の火が消えそうになって来たから、消えないうちに、残った二人を先にしたらどうだろうか」と、堀井が珍しく気の利いた提案をする。
「僕に異論はないぜ。話が最後までできるんならね」と、神岡が一旦引くと見せて、着実に馬を返してくる。これだからプライドの高いナルシストってやつは… おっと、これは私の内心の声です。聴かなかったことにしてください。
「ところで、神岡の話はあとどれくらいかかるんだい」と露野が冷静な質問をする。
「そうだな、あと一〇分くらいかな」
「うーん、それなら先に話してもらった方がいいか。俺のはどうも一〇分では終わりそうにないから」と、露野が顔を曇らせる。
「野上はどうだい。どれくらいかかる」と大山。
「うーん、おれのもそれなりに込み入っているから、二〇分以上はかかると思う」
「なあんだ、それならやっぱり僕が話すしかないようだね」
「なんだか、うれしそうだな。失恋話だというのに」堀井が非難するような、くぐもった声をだす。
「いや、そんなことはない。僕に取っては一生に一度あるかないかの失恋話だ。あとできっと、僕の苦しい心のうちを知ってみんな涙を流してくれるものと信じたい」
「よし、わかった。それじゃ、先に神岡に話してもらおうか。だから、誰の話の途中で大文字の火が消えても文句は言いっこなしだぜ。たとえ消えても今夜中なら話の供養はしたことになるだろうからね。いいかい」私たちは一斉にうなずいて、神岡が話すのを待った。
神岡は、すっと両腕を組むと、虚空を見つめるように目をつむり、少し間を置いてから話し始めた。
「たしか件(くだん)の女性が、こう言ったところで終わっていたと思う。
「ごめんなさいね。どうしてもまわりたいところがあと二つあるの。付き合ってくださる?」
あと二つ?あと二つもあるのか。
何という幸運!何という光栄!
僕は生まれて初めて心から神に感謝したね。だって、そうだろう。龍馬様の墓参りが済んでいよいよこの恋も一巻の終わりかとあきらめかけていた僕に、あと墓二つ分の時間をこんなすてきな女性と過ごすチャンスが、廻って来たんだから。まだまだ墓参りも捨てたものではなかったね。だが、ここで素直にはしゃいでは底の浅い、軽い人間と見られる恐れがある。僕はこみ上げて来た喜びをぐっと飲み込み、努めて冷静を装うことにした。すべてはバラ色の未来のために。
「もちろん、最後まで付き合わせてもらいますから大丈夫。ご心配は要りません。でも、足が痛みませんか。あと二つって、けっこう歩くようだけど、いったいどこへ行くんですか」
「あのう、金地院と法然院なんですけど」
「えっ金地院と法然院?そりゃまた、あまり聞かない取り合わせですね」
「ええ、だってお墓参りですから」
「ああ、そうか。観光じゃないか。でも、どちらもその足で歩くにはちょっと遠いな。どうでしょう、タクシーを呼んでは」
「そうね、まだ歩けそうな気もするけれど、こんな日は無理しない方がいいわね。じゃ、タクシーで行きましょう。でもその前に一つだけお願いがあるの。『ねねの道』から円山公園までは歩いてもいいかしら。ガイドブックに京都らしい絶好の散歩道だって書いてあるものだから、どうしても歩いてみたいの。ね、お願い」再び彼女のつややかな黒い瞳がきらりといたずらっぽく輝いた。僕に抵抗するすべは、もはや残されていなかった。
僕たちは『ねねの道』、円山公園と歩き、知恩院道で折よく空車になったばかりのタクシーを見つけ、金地院のある南禅寺へと向かった。南禅寺の門前でタクシーを降りると金地院の入り口はもう目と鼻の先だった。僕は急に思い出したことがあって、彼女にたずねた。
「あのう、一つ聞いてもいいですか」
「ええ、もちろんよ。ここまでお世話になったんですから、どうぞ何なりと」
「金地院でいったい誰のお墓参りをするんですか」
「やっぱりきみ、まだわたしのこと、ちょっと変な人だと疑ってるでしょう。」
「いえ、そうじゃないんです。実は僕もある尊敬する人物の墓参りにここを訪ねたことがあるんですが、関係者でないと入れないようにしてあるんですよ」
「というと?」
「墓地の入り口に竹を横に渡して通れなくしてあります。上からまたぐか下をくぐるかすれば、入れないこともないにはないんですが」
「あなたはどうしたの」
「僕はあきらめました」
「あら、潔いのね」
「いいえ、決して。あきらめたと見せて人が見ていなかったら、またいで入ろうと思いました。僕はあたりを見回しました。幸い誰も見ていません。急いで引き返し、竹をまたごうとして前を見ると、なんと、すぐそこに目的の墓が見えているじゃないですか。何と言う幸運!何と言う光栄!僕はその墓に向かって両手をあわせ、心の中で『神様、仏様、浅井様』と拝んでからそこを立ち去りました。そういう話です。だから、墓地には入れないと思います」
「今、何て、何て言いましたか」
「だから、墓地には入れないと」
「そうじゃないの、その前、その前」
「墓に両手を合わせて拝んだと」
「そうじゃないの、そのあと、そのあと」
「立ち去ったと」
「そうじゃないの、あなたの拝んだ言葉のこと」
「神様、仏様、浅井様ですけど」
「そう、そう、それよ、それ。ね、その浅井様ってどなたのこと」
「そりゃあもう、僕の大尊敬している画家の浅井忠のことですよ」
「まあ、うれしい。わたし今日は何て運がいいんでしょう」
「さっきは、何て運が悪いんでしょうって、言ってましたよ」
「うーん、記憶がいいのね。それじゃ、今日は運勢の変わり目ということにしときましょう。ま、それは、それとして、本当に今日はありがとうございます。実はわたしも浅井忠様のお墓参りを計画していたの。あなたのおかげで迷わず目的が達成できそうだわ。本当にありがとう。それじゃ、お墓参りを済ませてきましょうか。もちろん一緒について来てくださるわね」そう言うと、彼女はこころなしか踏む砂利に足音を少しきしませながら、先に立って歩き出した。僕もすぐ後に続いた。
僕たちは浅井忠の墓参りを済ませると再び南禅寺の門前に立った。僕は気になっていた質問をまた一つした。
「で、龍馬様と浅井忠様にどんなつながりがあるんですか。どうも、にわかには分かりませんが」
「そうね、龍馬様からだと確かにつなげるのは難しいわね」
「じゃ、誰とつなげればいいんですか」
「さっき、ちょっと話したこと覚えてます? ほら、わたし、京都を舞台にした明治時代の女性史を書きたいって言ってたでしょう、それがヒント。だれだか当てられるかな。ちょっとむずかしいですけど」
「もちろん知られている人ですよね」
「さて、これで堀井の話も終わったか。となると、残りは野上と露野だな」そう言うと、大山は、ふううっ、と尾を引くため息をついて両手をあげ、大きく伸びをした。つられて私も伸びをした。どうやら、話疲れならぬ聴き疲れがして来たようだ。
「いや、僕がまだ終わっていないぜ」と、神岡がひざを乗り出してくる。最後まで話さずにはおかないぞという気迫が声にこもっている。他の四人はお互いに顔を見合わせた。
「まあ、そうには違いないが、大文字の火が消えそうになって来たから、消えないうちに、残った二人を先にしたらどうだろうか」と、堀井が珍しく気の利いた提案をする。
「僕に異論はないぜ。話が最後までできるんならね」と、神岡が一旦引くと見せて、着実に馬を返してくる。これだからプライドの高いナルシストってやつは… おっと、これは私の内心の声です。聴かなかったことにしてください。
「ところで、神岡の話はあとどれくらいかかるんだい」と露野が冷静な質問をする。
「そうだな、あと一〇分くらいかな」
「うーん、それなら先に話してもらった方がいいか。俺のはどうも一〇分では終わりそうにないから」と、露野が顔を曇らせる。
「野上はどうだい。どれくらいかかる」と大山。
「うーん、おれのもそれなりに込み入っているから、二〇分以上はかかると思う」
「なあんだ、それならやっぱり僕が話すしかないようだね」
「なんだか、うれしそうだな。失恋話だというのに」堀井が非難するような、くぐもった声をだす。
「いや、そんなことはない。僕に取っては一生に一度あるかないかの失恋話だ。あとできっと、僕の苦しい心のうちを知ってみんな涙を流してくれるものと信じたい」
「よし、わかった。それじゃ、先に神岡に話してもらおうか。だから、誰の話の途中で大文字の火が消えても文句は言いっこなしだぜ。たとえ消えても今夜中なら話の供養はしたことになるだろうからね。いいかい」私たちは一斉にうなずいて、神岡が話すのを待った。
神岡は、すっと両腕を組むと、虚空を見つめるように目をつむり、少し間を置いてから話し始めた。
「たしか件(くだん)の女性が、こう言ったところで終わっていたと思う。
「ごめんなさいね。どうしてもまわりたいところがあと二つあるの。付き合ってくださる?」
あと二つ?あと二つもあるのか。
何という幸運!何という光栄!
僕は生まれて初めて心から神に感謝したね。だって、そうだろう。龍馬様の墓参りが済んでいよいよこの恋も一巻の終わりかとあきらめかけていた僕に、あと墓二つ分の時間をこんなすてきな女性と過ごすチャンスが、廻って来たんだから。まだまだ墓参りも捨てたものではなかったね。だが、ここで素直にはしゃいでは底の浅い、軽い人間と見られる恐れがある。僕はこみ上げて来た喜びをぐっと飲み込み、努めて冷静を装うことにした。すべてはバラ色の未来のために。
「もちろん、最後まで付き合わせてもらいますから大丈夫。ご心配は要りません。でも、足が痛みませんか。あと二つって、けっこう歩くようだけど、いったいどこへ行くんですか」
「あのう、金地院と法然院なんですけど」
「えっ金地院と法然院?そりゃまた、あまり聞かない取り合わせですね」
「ええ、だってお墓参りですから」
「ああ、そうか。観光じゃないか。でも、どちらもその足で歩くにはちょっと遠いな。どうでしょう、タクシーを呼んでは」
「そうね、まだ歩けそうな気もするけれど、こんな日は無理しない方がいいわね。じゃ、タクシーで行きましょう。でもその前に一つだけお願いがあるの。『ねねの道』から円山公園までは歩いてもいいかしら。ガイドブックに京都らしい絶好の散歩道だって書いてあるものだから、どうしても歩いてみたいの。ね、お願い」再び彼女のつややかな黒い瞳がきらりといたずらっぽく輝いた。僕に抵抗するすべは、もはや残されていなかった。
僕たちは『ねねの道』、円山公園と歩き、知恩院道で折よく空車になったばかりのタクシーを見つけ、金地院のある南禅寺へと向かった。南禅寺の門前でタクシーを降りると金地院の入り口はもう目と鼻の先だった。僕は急に思い出したことがあって、彼女にたずねた。
「あのう、一つ聞いてもいいですか」
「ええ、もちろんよ。ここまでお世話になったんですから、どうぞ何なりと」
「金地院でいったい誰のお墓参りをするんですか」
「やっぱりきみ、まだわたしのこと、ちょっと変な人だと疑ってるでしょう。」
「いえ、そうじゃないんです。実は僕もある尊敬する人物の墓参りにここを訪ねたことがあるんですが、関係者でないと入れないようにしてあるんですよ」
「というと?」
「墓地の入り口に竹を横に渡して通れなくしてあります。上からまたぐか下をくぐるかすれば、入れないこともないにはないんですが」
「あなたはどうしたの」
「僕はあきらめました」
「あら、潔いのね」
「いいえ、決して。あきらめたと見せて人が見ていなかったら、またいで入ろうと思いました。僕はあたりを見回しました。幸い誰も見ていません。急いで引き返し、竹をまたごうとして前を見ると、なんと、すぐそこに目的の墓が見えているじゃないですか。何と言う幸運!何と言う光栄!僕はその墓に向かって両手をあわせ、心の中で『神様、仏様、浅井様』と拝んでからそこを立ち去りました。そういう話です。だから、墓地には入れないと思います」
「今、何て、何て言いましたか」
「だから、墓地には入れないと」
「そうじゃないの、その前、その前」
「墓に両手を合わせて拝んだと」
「そうじゃないの、そのあと、そのあと」
「立ち去ったと」
「そうじゃないの、あなたの拝んだ言葉のこと」
「神様、仏様、浅井様ですけど」
「そう、そう、それよ、それ。ね、その浅井様ってどなたのこと」
「そりゃあもう、僕の大尊敬している画家の浅井忠のことですよ」
「まあ、うれしい。わたし今日は何て運がいいんでしょう」
「さっきは、何て運が悪いんでしょうって、言ってましたよ」
「うーん、記憶がいいのね。それじゃ、今日は運勢の変わり目ということにしときましょう。ま、それは、それとして、本当に今日はありがとうございます。実はわたしも浅井忠様のお墓参りを計画していたの。あなたのおかげで迷わず目的が達成できそうだわ。本当にありがとう。それじゃ、お墓参りを済ませてきましょうか。もちろん一緒について来てくださるわね」そう言うと、彼女はこころなしか踏む砂利に足音を少しきしませながら、先に立って歩き出した。僕もすぐ後に続いた。
僕たちは浅井忠の墓参りを済ませると再び南禅寺の門前に立った。僕は気になっていた質問をまた一つした。
「で、龍馬様と浅井忠様にどんなつながりがあるんですか。どうも、にわかには分かりませんが」
「そうね、龍馬様からだと確かにつなげるのは難しいわね」
「じゃ、誰とつなげればいいんですか」
「さっき、ちょっと話したこと覚えてます? ほら、わたし、京都を舞台にした明治時代の女性史を書きたいって言ってたでしょう、それがヒント。だれだか当てられるかな。ちょっとむずかしいですけど」
「もちろん知られている人ですよね」
作品名:京都七景【第十五章】 作家名:折口学