私を火星につれてって
それは確実にもっと早くに聞くべき質問だった。
「では、ここで問題です。」
どんな問題が出されるのかは分かりきっていた
「ここはどこでしょう。壱、火星。弐、マーズ。参、アレース。」
「全部火星じゃないか。」
「ピンポン。正解よ、佐藤。よく分かったわね。」
佐藤は意外にも冷静だった。これは何かの冗談に違いないと分かっていたからだ。
「そんな訳がない。」
「あら、どうしてかしら。」
「まず、地球と火星がどれだけ離れていると思う?」
「そんなのその時々で変わるわよ。近い時で5400万キロ、遠くて1億キロくらいね。」
「よく知ってるな。」
「常識よ。小学校で習ったわ。」
「まあ、第一は地球から遠すぎるという事。」
「そうね。」
塩見は何か反論したそうな顔をしたが、最後まで聞いてやろうと相槌を打った。
「次に、仮にここが火星だとして、酸素濃度はどうなる。」
「酸素は0.13パーセントしかないわね。」
「よく知ってるな。」
「これも小学校で習ったわ。」
そんなことまで習ったかと疑問を持ちながら佐藤は続ける。
「とにかく、地球からの距離が遠すぎるし、火星の大気からして、俺達が今のうのうと話しているのもおかしいってことだ。だからここは火星じゃない。」
塩見は真顔で佐藤を見つめた。『本気で言っているのか』と言わんばかりだった。
「本気で言ってるの?」
「ああ。」
「まるで今までまともなことしか体験していないような口ぶりね。あなたは今日、なんの変哲も無いバス停の小屋の壁の木目から真っ暗な道を通ってここに来たのよ。それが何よ、火星に着いたくらいで急にまともになっちゃって。」
「火星に着いたくらいってお前な・・・」
佐藤は続けて反論しようとしたが、やめた。
目の前に数十分前に見た白い手が地面から生えてきたからである。
ただ、今回は数が多い。
「あ、そっか。もう、佐藤が余計なことを聞くから・・・」
塩見が一人でブツブツと呟く。
「何を一人で言ってるんだ。」
まずはこの状況に驚け、と付け加えて佐藤は塩見を睨んだ。
「まあいいわ。逃げましょう。追いかけてくるわ。」
佐藤には何が『まあいい』のかは分からなかったが、逃げることには賛成だった。白い手たちは追いかけてくる気配は無いが。
二人は白い手たちの逆方向に走り出した。
「そうだ。そうだよ。」
「何が。何よ。」
「お前に聞きたいことを思いだした。なんだよ、あれ。」
「どうして私が知っている前提なのかしら。」
どちらもスニーカーを履いているからだろうか、軽やかに風を追い越しながら二人は言い合う。
「知っていなきゃあんな反応しないじゃないか。普通の女子大生なら、『きゃあ』とか、『いやあ』とか叫んでもおかしくないだろ。何だよ、その冷静さは。」
「決めつけるのは良くないわよ。佐藤。もしかしたら私は血も涙もない冷徹な女で、生まれてこのかた叫んだことも泣いたこともないかもしれないじゃない。」
「お前の幼少期を見たくなってきたよ。」
「鉄の女と呼びなさい。」
「サッチャーか、お前は。」
「あら。」
「どうした。」
「あんな所に隠れるには丁度いい洞窟があるわ。」
塩見が指さした先には、なるほど、大人が二、三人は入れるほどの洞窟があった。
「ラッキーだな。」
「ええそうね。」
佐藤はいよいよ訝しげに塩見を見た。
「何よ。」
「いや、早く行こう。」
二人は加速した。
「もういいんじゃないか。」
佐藤は洞窟に入るなり言った。
「何がよ。」
塩見は壁によりかかりながら返した。
「俺を元の場所へ、あの薄汚れたいつものバス停に返してくれと言っているんだ。」
「どういうことよ。」
「とぼけるなよ。」
佐藤は詰め寄る。
「乱数調整なんて、あんなの嘘だろう。仕組んだんだ。お前が。バス停の扉も、白い手も、火星も。」
佐藤は興奮したのか気が付いたころには塩見の顔との距離はちょうど広辞苑の厚さほどしかなかった。塩見は顔を背ける。
「どうしてよ。」
「何がだ。」
「どうして私がそんなことするのかしら。」
「それは俺が聞きたいね。」
「吊り橋効果って知ってる?佐藤。」
さっき塩見は顔を背けたが、それだけで塩見と佐藤の距離は変わらない。塩見は少し赤い顔で佐藤を見た。走ったからだろうか。それとも、
「ああ。吊り橋にいるという心の動揺を恋と勘違いすることだろう。」
佐藤は淡々と答えた。
答えた後にハッとした。
「思い出した?」
『佐藤さんって、吊り橋効果って信じます?』
あれは去年のサークルの新入生歓迎会のことだった。塩見です。よろしく、と色白で綺麗な子が佐藤の隣に座るなり言い出した。
『まあ、信じるかな。俺、高所恐怖症だし、吊り橋なんか渡ったら凄くドキドキしそうだよ。』
佐藤が答えると彼女は優しく微笑んだ。
『そうなんですね。じゃあ、宇宙なんか行ったら大変ですね。高いってもんじゃないですよ。』
『星を見るのは好きなんだけどね。だからこの天文学サークルに入ろうと思ったんだけど。』
『私は星を見るのも好きなんですけど、行ってみたいんです。』
『星に?』
『はい。火星とか。』
『火星か。赤い大地のイメージしかないなぁ。』
『それがいいんですよ。』
そう彼女は無邪気に笑った。
彼女の、塩見のバッグには白い手の不気味なキャラクターのストラップがついていた。当時流行っていたものだ。キモかわいい、らしい。
その後も佐藤と塩見は少し話したがすぐ一年生狙いの上級生が塩見を席へと誘った。
『じゃあ、佐藤さんまた今度話しましょう。今は、行かなきゃいけないみたいなんで。』
『ああ。』
しかしそれ以来二人が話すことはなかった。
塩見がサークルにぱったりと来なくなったからである。
そのうち佐藤は塩見の存在を忘れていた。大学の最初の一年間というのは人間関係の変化も激しく、たった一度話した相手のことを忘れるのも無理は無かった。
もし、塩見がサークルにだけではなく、大学にも来ていなかったとしたらもちろん彼女は留年し、佐藤と同じ年齢だが一年生、ということになる。
佐藤は塩見を見た。
「なあ、お前は・・・」
「ごめんなさい。」
塩見は頭を下げた。
「私、あなたにもう一度会いたくて、一緒に、火星に行きたくて。」
「塩見・・・」
「でも、もう時間ね。残念。あなたのせいよ。あなたと話すと楽しくて、時間がすぐ流れちゃう。」
「塩見、俺はお前ともっと話がしたい。天体の事、教えてくれよ。もっと。」
「私、良かった。あなたと・・・」
洞窟が青く光り始めた。
佐藤は眩しさで目を閉じる。
「塩見・・・」
「佐藤!おい佐藤って!」
佐藤は眩しくて目を開けた。真っ青な空が瞳にうつる。
どうやらバス停の小屋のベンチで寝てしまっていたらしい。
「いくら連絡しても出ないからわざわざお前のバス停まで来たらベンチで寝てんだもんな。ビックリだぜ。もう行っちまったよ。一番早いバスは。」
同級生の壮介が汗だくで怒る。
「悪い。」
「それよりお前大丈夫か?」
「何がだよ。」
「何がってお前、振られたんだろ?今年入った翔子ちゃんに。」
「振られたっていうより、告白も出来なかったよ。」
作品名:私を火星につれてって 作家名:優しさに感染した男