推定有罪
世慣れた人間ならそういう計算が出来たかもしれない、しかし、俺は青春を柔道に賭け、卒業後もかなり理想に近い職場環境で過ごして来ている、俺はその時に至っても、自分に疚しいことがない以上わかって貰えるとどこかで信じていたのだ。
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次の駅の事務室には既に警官が来ていて、俺の『取調べ』が始まった。
「あなたが被害者? あなたたちは? あ、そう、お友達ね、近くで見てたんだね? それと、あなたは?」
「私はこういう者です」
理知的な女性が差し出した名刺、それにはこう記されていた。
【山田法律事務所 弁護士 山田久美子】
「ほう、弁護士さんですか、偶然でしょうが良い人が目撃されましたな」
「いえ、正確に言うと目撃はしていません、ただ、その後のやり取りはすぐ近くで聞いていました」
「そうですか、それでも心強い、で? 弁護士さんはどう思われます?」
「痴漢行為があったと考えざるを得ません」
「……え?……」
寝耳に水だった……冷静に判断して不可抗力だったと説明してくれると思っていたのだ。
「あのカーブでは電車は大きく揺れます、被疑者は通勤にこの線を利用していないと言いますが、居住地からして初めて乗ったとは思えません」
「そこんとこ、どうなの?」
「ええ、一、二ヶ月に一度位は乗ってますよ」
「ほら、だったらあのカーブで揺れるのは知っていたということですね、ですから被害者に目を付けて狙っていた、そしてカーブで揺れた時に被害者が倒れ掛かってくる瞬間を捉えて胸を揉んだ、そう考えるのが自然です」
「なるほど」
「いや、なるほど、じゃないでしょう? 確かに時々乗ってはいますけど、ほとんどが休日の昼間です、座ったりドアにもたれかかったりしていれば大して印象に残っちゃいませんよ」
「稚拙で卑怯な言い逃れですね」
「な……」
稚拙はともかく卑怯と言う一言に、一瞬沸騰しかけたが何とか思いとどまった、すると次第に恐ろしくなって来た。
この弁護士だという女性、俺をなんとしても痴漢にするつもりらしい……ただ吊るし上げることしか考えていなかった女性たちのほうがまだましだった、俺をぎゃふんと言わせて溜飲を下げたいだけだったろうから……だが、この弁護士は俺を犯罪者と決めてかかって、豊富な法律知識を武器に罪を着せようとしているのだ。
罠にかかった獲物に忍び寄る蜘蛛のように……。
「証拠ならば彼女のセーラー服についているでしょうね、DNA鑑定をすれば被疑者の物が出るはずです」
「やっぱり触ったんだな?」
「それは最初から認めてますよ、いいですか? 電車はカーブで大きく揺れた、それはわかりますね? 俺は普段満員電車に乗り慣れていないし、足腰は普通より丈夫ですからつい踏ん張ってしまった、その時にもたれかかってきた女子高生を思わず受け止めてしまったら、間の悪いことにそこが彼女の胸だった、そういうことなんですよ、断じてわざとじゃない、不可抗力です」
「……と言っていますが?」
「わざとじゃないと証明できますか?」
「それは……信用してもらうしかない」
「信用? あなた、『金欲しさの言いがかりか?』と言いましたね?」
「う……まあ、確かに言いました……」
「それはつまり、痴漢行為を咎められてもお金で解決できると思っていたということでは?」
「そんな乱暴な」
「常習犯の可能性もありますね、過去にそれで逃れられたので味をしめたとも」
「ばかな! そもそもこの時間帯に電車に乗るなんて事は滅多にないんだ」
「滅多に、と言う事はたまにはある、と言うことですね、それに、あなた、今『ばか』と言いましたね?」
「いや、そんなばかな、と言う意味ですよ」
「そうですか、その乱暴で高圧的な一言で罪から逃れられると思っているんですね……社会人としての良識を疑わざるを得ません、セクハラ、パワハラを繰り返す上司にありがちな思考回路です、高校の教師と言うことですが、こんな教師に教えられる生徒が可哀想です、そんな立場にふさわしい人間だとは到底思えません」
「いや、なんならウチの生徒に聞いてみてくれ、それなりに好かれているはずだ」
「それとこれとは話が別です」
「いや、だって教師にふさわしくないと言ったじゃないか」
「学校では猫を被っているんでしょう、痴漢と言う卑劣な犯罪を犯すような人物です、裏表を使い分けてても不思議じゃありません」
「な……」
「あんたねぇ、白状しちまったほうが良いよ、でないと『やってない』って証拠を出せない限り拘留されることになるんだけどなぁ」
警官までそんな事を言う。
「日本の法律って『やった』って証拠がない限り罪に問われないんじゃなかったでしたっけ? 『推定無罪』って……『やってない』証拠がないと罪になるって、それじゃ『推定有罪』じゃないですか」
「だけどねぇ、痴漢の場合はちょっと違うんだよ、男なら誰だって動機は持っているわけだし、手段も手を出すだけでしょ? アリバイは元々成立しないわけだし」
「『やってない』証拠って、そういうのを『悪魔の証明』って言うんじゃないんですか? これじゃ魔女裁判ですよ、とりあえず火あぶりにして、死んだから魔女じゃなかったとわかって『ごめん、間違いだった』で済みますか?」
「そうは言ってもねぇ」
警官は少し怯んだようだが、その時、女性弁護士が追い討ちをかけてきた。
「じゃぁ聞きますけど、わざとじゃなかったって証拠はありますか? 今回の場合は被害者のセーラー服にも痕跡は残っているんでしょう? わざとじゃないと言うのはあなたの一方的な主張に過ぎません、被害者と加害者がいる場合、被害者を守るのが法律です」
「人を一方的に加害者呼ばわりするのはよせ!」
ついカッとなってしまったが、これは弁護士の思う壺だった、俺は手足に蜘蛛の糸が絡まって来たのように感じた。
「ほら、そうやってすぐに声を荒げる、心に疚しい所があるからそうやってごまかそうとしているんじゃないですか?」
「心に疚しい所がないから痴漢扱いに憤慨してるんだ」
「いいえ、あなたの『金目当てか?』って一言が証明しています、わざとじゃないならお金で解決しようなんて発想は生まれません」
「それはだな、そういう事例もあるって聞いて知ってたからだよ」
「その事例って、あなた自身の経験じゃないんですか? それとも、どうせお金で解決がつくと多寡をくくっていたんじゃないでか?」
「滅多に満員電車には乗らないんだ」
「ええ、そう言ってましたね、それは信じますよ、でも、滅多に乗らないからこそ、もし痴漢行為がばれてもその場で解決してしまえば良い、そう考えたのではないですか? 毎日同じ電車に乗っているならそうも行かないでしょうけど」
「たまにしか満員電車に乗らない男は全員痴漢か?」
「そんなことは一言も言ってませんよ、痴漢行為を働いたから痴漢と言っているだけです」
「だから、俺はやってないって言ってるだろう?」
「やったとあっさり認める痴漢なんかいませんよ、皆追い詰められて白状するんです、中には最後まで認めない痴漢もいます」
「あ……それが冤罪じゃなかったと言えるのか?」
「さあ、どうでしょうね」