推定有罪
俺は近藤誠、三十三歳。
東京郊外、と言うかかなり外れの方の高校で保健体育を教えている。
立地こそかなり辺鄙な所だが、そこそこ名の通った大学の付属高で結構な難関高だから真面目な生徒が揃っているし、大学受験の心配がなく、自然環境も申し分ないので生徒は伸び伸びと過ごしている。
体育の授業にも真剣に取り組んでくれるので、仕事上のストレスはほとんどない。
通勤もストレスフリー、俺のマンションからだと、朝は下りの電車に乗り、帰りは上りの電車に乗ることになる、しかも三つ目の駅、こんなに恵まれた通勤をしている人間はそうそう居ないのではないだろうか。
三年前に結婚した嫁さんとの仲もまずまず、そろそろ子供も欲しいねと話し合っているところだ。
高校で体育教師ともなれば部活の顧問も避けられないところだが、俺が教えている柔道部は部員数も少なくあまり強いとは言えない、練習は週に三日、夕食時までには生徒を帰すようにしている、中学から大学まで柔道に打ち込んできた俺にしてみれば物足りなさもあるが、部員達はそれなりに真面目に取り組んでいるし雰囲気は悪くない。
と言うわけで、俺は何の不満もない日々を送っていた。
そう、あの日までは……。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
その日は一学期の中間テスト期間だった。
保健体育の中間テストは行わないので、俺は柔道部関係の用事を済まそうと都心に向かった。
いつもの駅から電車に乗ったのだがいつもとは方向が逆、普段『あっちは大変そうだな』と同情している上り電車に乗ったのだ。
しかし、俺が普段眺めているラッシュはほんの序の口だった、ターミナル駅で乗り換え、都心が近くなって来ると混雑具合は激しくなる一方。
周りの乗客は慣れていると見え、電車の揺れにある程度身を任せて柳のように揺らいで体力を温存している、しかし、俺はと言えば、満員電車に慣れていない上に柔道で鍛えているから人よりも足腰は強い、つい踏ん張ってしまうので周りの人たちにすれば却って迷惑な存在だったようで、チラッと睨まれたりもした。
そして電車は大きなカーブに差し掛かった。
乗客の波は大きく揺れて俺にのしかかって来る、それに逆らわない方が良いと頭ではわかっていても、思わず大きく傾いて来た乗客を受け止めてしまった……。
その時……掌に残る柔らかな感触……。
「あ、ゴメン、わざとじゃないんだ」
受け止めてしまったのはセーラー服の女子高生、しかも俺の右の掌は彼女の胸のふくらみの上。
慌てて手を上げて謝るが、彼女は俺をきっと睨む。
「すまなかった、満員電車に慣れてないもんで」
俺はまだその時、事態をそう深刻に受け止めてはいなかった。
誰が見てもわざとやったようには見えない、そう思っていたし、謝れば済むと思っていた。
しかし、彼女の目にはじわじわと涙が……。
俺はちょっとドギマギしてしまった、まさか泣かれるとは……。
そして、その直後、俺は自分の耳を疑った。
「痴漢……」
「えっ?」
いや、確かに胸に触れてしまったことは認める、しかし、こんな満員電車の中だ、体が触れるなと言うほうが無理と言うものだろう、しかも大きなカーブで……。
「胸を揉まれました」
「いや、揉んでなんかいないだろう? 偶然触れてしまったことは認めるけど、断じてわざとじゃないんだ、痴漢呼ばわりは心外だな」
正直、ムッとしていたが、俺はなるべく穏便に話したつもりだった、触れてしまったのは事実だし、大げさだなとは思ったが、涙ぐんでいる女子高生を前に居丈高になれるほど俺は不遜ではないつもりだったから……。
しかし、彼女の目からポロリと涙がこぼれると、それを合図にしたかのように、彼女の周りの女子高生たちが騒ぎ始めた、制服が違うので別な学校の生徒のようだ。
「美幸、泣いてるじゃない」
「わざとじゃないって証明できるの?」
「痴漢しておいて言い逃れする気?」
平謝りするつもりだったが、ここに至って俺もイラっとしてしまった……。
「証明できるかって? そんなの無理に決まってるじゃないか」
「やっぱり痴漢したんだ」
「いや、違う、痴漢だったら触れてしまった事も隠そうとするだろう? 偶然なんだ、偶然でも触れてしまったことについて謝ってる、これ以上どうしろと言うんだ?」
「どうしろって、罪を償ってもらうわよ」
「罪って……不可抗力だろう?」
「それで済むなら交通事故を起こしたって、しょうがなかったで済んじゃうじゃない」
「いや、だって、別に怪我させたわけじゃないし」
「いいえ、心に傷を負わせました、賠償してよ」
人を鼻先で笑うような横柄な態度、『美幸』と呼ばれた娘は大人しそうで清楚な雰囲気だったのだが、取り巻きは服装も態度もだらしなく世の中を舐めきっている雰囲気、普段真面目で明るい高校生とばかり触れ合っているので余計に腹立たしく感じてしまい、俺はちょっと言い過ぎてしまった。
「……何だ? 金欲しさの言いがかりか?」
その一言が拙かった……それまで冷ややかな目で見ているだけだった周囲の女性たちが、急に女子高生達の味方をし始めたのだ、いや、正確に言えば俺を『女性の敵』と認識したのだ。
「なによ、痴漢しておいて開き直る気?」
「いや、だからわざとじゃないんですよ、満員電車に慣れていないもので」
この一言も拙かった、満員電車には誰だってうんざりしている、普段この苦しみと無縁な人間は、それだけでもう『こっち側』の人間ではないのだ。
「見るからにスケベそうな顔」
「人を見かけで判断するんですか?」
少し目つきが厳しくなってしまっていたらしい、逆に刺すような視線が四方八方から飛んで来る。
「大方ロクな仕事はしてないわね」
「こう見えても高校の教師ですよ、体育ですけど」
「スケベ」
高校の体育教師だからスケベ? 偏見だ、言いがかりだ!
「女の子のブルマとか見て欲情してるんでしょ」
「ご冗談を……そもそも今時はブルマなんて穿いていませんよ」
「でも、水泳はもちろん、陸上の選手とかも結構露出してるわよね」
「柔道部の顧問ですから、そう言うのとは無縁ですよ」
「柔道の顧問で訴えられたのいたわよねぇ」
確かにそんな事件はあった……しかし、こんなところで火の粉をかぶることになるとは……。
その後は何を言っても無駄だった、なにしろこっちは『女性の敵』と認識されてしまったのだ、その上『やっていない』ことの証明は不可能、更に言うなら不可抗力とは言え女子高生の胸に触れてしまった事は事実。
その時、この騒ぎを近くで見ていた女性が口を開いた。
「とにかく次の駅で降りましょう、同意してもらえますね? あなたたちも一緒に行ってもらえるわね? 学校には私から連絡してあげるから」
理知的な感じの女性で、俺を吊るし上げることしか考えていないような他の女性たちとは違う冷静な口調。
「ええ、良いですよ」
俺はむしろほっとしてその提案に同意した、いや、同意してしまった……。
後々考えれば、その場で金を渡すなりして示談にしてしまうと言う手もあったのだ。