幸せの青い鳥
「いや、その事なんだけど。今日は、実はその話をしに来た訳ではないの」
僕の脳内を、幾分かの疑問符が飛び交った。
「えっ、え?」
「あまりオオゴトにしないで欲しい事なんだけど、良いかな?」
「……う、うん」
結婚目前の有名女優である奈央さんが話したい事って、一体何なのだろうか。それも、世間の人々に明かしてはいけない事。僕は固唾を飲んで、彼女の言葉を待っていた。
「あのね、既に知っている事だと思うけど、私は今度の土曜日――つまり、自分の誕生日の日に彼と結婚式を催す予定なんだ」
「それは、めでたい話だよね。本当におめでとう!」
荒居奈央という人間のファンの一人として、こんなに喜ばしい事は無い。僕が究極の理想論を述べるのならば、彼女を嫁に迎えたいくらいなのだが。しかし、こんなゲスい事を奈央さんがするはずがない。きっと、彼女の結婚式に僕を招待してくれるはずだ。一回だけスタバでコーヒー飲んだだけ、という大した繋がりも無い仲ではあるが。
「……うん。有難うね。でも、私にとっては嬉しくはない話なの」
「ど、どういう事なの?」
当然疑問に思った僕は、奈央さんにその理由を尋ねていた。
「実はね、私は彼にDV被害を受けているの。だから、結婚式の日に式を抜け出して、私と一緒に遊んでくれる人を探しているの」
「要するに、不倫って事?」
「そう、その通り。悪く言えば、ゲスな事だけどね」
余りにも衝撃的だった彼女の言葉に、僕は唖然していた。
「そ、そうなのか。他の人たちにも似た様な事は聞いたのか?」
「うん。でも、全部断られた」
一体、どうすれば良いのだろうか。自分にとっての好きな女優が彼と結婚して、DV被害に遭い続けるのか。それとも、大好きな女優と不倫をして二人で密かに暮らしていくのか。不倫をしてしまうと、彼女の名誉にも傷がつきかねない。
だが今の僕には、意外とその決断に時間がかからなかった。
「……奈央さん。一緒に、不倫しましょう」
3
結婚式当日の土曜日。
僕は準備を済ませてから奈央さんを呼び寄せ、大阪へ向かった。都内某所で開かれるという結婚式場所との距離を出来るだけ開けておこう、という意思表示だった。
新大阪駅で新幹線を途中下車し、地下鉄御堂筋線に乗り換えて目的地を目指した。
「動物園前、動物園前です。お出口は左側です」
車掌のアナウンスが慌ただしい車両の中に響き渡っていた。
「――行こうか、奈央さん」
「そうだね、如月くん」
電話番号は、相変わらず交換していない。有名人だから、仕事関係で必要な最低限度のアドレスさえ分かっていれば良いのだという。実際、今日までの連絡もあのSNS上だけで行ってきた。SNS上のダイレクトメッセージを利用したのである。この機能を利用すれば、他人に見られずにメッセージのやり取りを行う事が出来る。自分も職業柄で有名人と電話番号と交換するのは都合が悪いので、正直助かった。
時刻は、十六時十五分。
予め考えてきたあの計画を始めるのには、丁度良い時間だ。
彼女の証拠はもう、掌握している。
まず、僕らが向かった場所は天王寺動物園だった。天王寺動物園は、一九一五年の元日に開園した、日本で三番目に歴史のある動物園である。約十一ヘクタールもの巨大な園内には、約二百種九百点の動物が飼育されているそうだ。因みに日本にある動物園の中では、全国二番目の来訪客を動員しているらしい。
「すっ、すごーい! こんな生物、初めて見たわ。ねえ如月くん。あれは、何ていうの?」
珍しい動物を観て感嘆していた奈央さんが、それを指差しながら僕に尋ねた。事前リサーチは完璧だ。あの食事の一件で、予習の素晴らしさを学んだのだから。もう、同じ失敗は二度と出来ない。
「あれはね、キーウィっていうんだ。ペンギンとかダチョウみたいに、鳥なのに飛べない鳥の一つなんだ」
「へえ……」
「キウイフルーツは知っているでしょ。あれの名前の由来にもなっているんだ」
「地味な動物だけど、何か良いよね。羽なんかは退化しすぎて、近くで観ても分からないや」
僕は首を傾げて、キーウィの方を眺めていた。
「そうだね。一見地味な仕事でも、頑張っている人って沢山いるからね。世間の秩序を守る為に」
「……えっ、何? どういう事?」
「いやいや、何でもないよ。奈央さんみたいにドラマで主演を張れる人にとって、キーウィみたいなポジションの脇役たちって、本当に大切でしょ。その有難さを感じないと」
「……あはは、確かにね。共演している仲間たちには、本当に感謝が尽きないよ。だから、動物園で言う所のゾウやライオン、キリン、それにパンダみたいな主役たちが輝けるんだね」
奈央さんは、不気味そうな笑みを見せていた。予想通りだ。
「そう思ってもらえると、何よりだよ。奈央さんには、よりドラマや映画に身を注いでほしいからね」
「ははは、有難う。如月くん」
「そう言って貰えると、何よりです。荒居奈央のファンの一人として、とても嬉しいです」
僕はそう言うと、奈央さんと共に次の動物の元へと足を運び始めた。
天王寺駅から離れた路地裏にある焼肉屋にて、少し早めのディナーを終えた僕らは、本日最後のデートスポットへと向かった。
時計の針は、十九時二十五分くらいだろうか。彼女の結婚式は本来、十九時から行われる予定だった。きっと、今頃「花嫁がいないぞ」なんていう記事がネットニュースに上がっている事だろう。
「南森町、南森町です」
谷町九丁目駅から今度は地下鉄谷町線を利用して、着いた駅は南森町駅だった。何しろ、今日は七月二十五日、土曜日。東京の神田祭と京都の祇園祭と並んで、日本三大祭とされている天神祭が実施されている日なのだ。そもそも、天神祭は二日間にわたって催され、祭のクライマックスには天神祭奉納花火が花を添える。電車を降りた僕らは、急いで改札を通り抜け、四番出入口を駆け上がった。
「……如月くん。なんで、こんなに急ぐの?」
「良いから、良いから。早くしないと始まっちゃうんだよ、お祭りが」
「祭り?」
僕は奈央さんの手を握りながら、彼女と離れない様にして走った。流石に、二日間でおよそ百二十五万人もの来場者数が見込まれている巨大なお祭りだからか、道から溢れるほどの人々がごった返していた。
「奈央さん、大丈夫?」
「うん……、大丈夫。でも、そろそろ足が」
半日歩き続けていていたとあって、奈央さんの足も限界に達しようとしていた。すると、僕は人だかりの中に微かな隙間を見つけた。
「ここに席を取ろう!」
「う、うん!」
僕は、その場所に奈央さんを座らせた。
「取り敢えず、ここで休ませて」
ぜえぜえ、はあはあ、と奈央さんの息が通常よりも荒く聞こえた。
「勿論。ゆっくり休んでよ」
時は満ちた。造幣局横にある川崎公園の中が大きな静寂に包まれていた。そして、十秒前からカウントダウンが始まった。
「何が始まるの?」
「僕の地元、大阪の自慢の風景さ。良いから、写真撮るぞ。今日の記念に」
そう言って、僕は予め準備していたカメラを取り出した。
三、二、一――。
その瞬間、大阪の夜空に無数の花が咲いた。
ひゅるるるるるる…… どーん……