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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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 それでも、なかなか家に帰りにくく、歩いている中に町外れまで来ていた。丁度、大通りを逸れた四辻を曲がった先に小さな古書店が見え、サスはしばらくそこで時間をやり過ごした。
 吏?判書の計らいで、サスは崔家の子息たちと机を並べて学問を教わる機会を得た。ゆえに、ひととおりの学識や教養は持っているのだが、いかにせん、やはり武芸の方が性に合っている。書物を読むよりは剣を振るっている方がはるかに有意義な時間を過ごせる。
 小さな書店には信じられないほどの本が置いてある。店の奥では、メガネをかけた中年の主人らしい男が机に向かって難しげな本を読んでいた。
「何か、お探しですか?」
 いきなり訊ねられ、サスは慌てた。
「いや、少し時間を潰したくて」
 正直に応えたサスに、店主は声を上げて笑った。
「妓房で夜明かしした翌朝には、なかなか女房の待つ家には帰りづらい。―違いますか?」
 サスは面食らった。
「何故、判るのだ?」
 店主はメガネを外し、呵々大笑した。
「白粉の匂いが」
「なるほど」
 サスが納得するのに、店主は肩を竦めた。
「正直な方ですな」
 店主はサスの脇を通り抜け、店先から空を見上げた。蒼い顔彩を溶き流したような空に、刷毛で刷いたような白い雲が筋になって漂っている。
「もう三月です。都の桜が咲くのも直ですなあ」
「桜が咲いたら、また、主人(あるじ)どのを訪ねてこよう」
「本が苦手な方は本屋にはご用がございませんでしょう。無理はしなくて良いですよ」
「何故、判る?」
 戦々恐々として言うと、主人はにっこりと笑う。
「お客さまは店に入ってから、一度も本を手に取ってみようとはなさらなかったじゃありませんか」
「うむ、そ、そうか。いや、それでも、主人どのとはまたゆっくりと話してみたいとは思うぞ。期待せずに待っていてくれ」
 細い眼の主人は歳からすれば、サスの父親といってもおかしくないほどだ。あの眼はどうやら千里眼並に人の心を見抜けるらしい。
 サスはそれ以上、主人に何かを見透かされるのを怖れるかのように、這々の体で古書店を後にした。
 書店を出て狭い路地を抜けて、再び大通りを歩き始めたときのことだ。サスは眼を瞠った。
 あの男だ!
 サスは急ぎ顔を伏せながらも、視線は油断泣くあの男―昨日、凜蓮と談笑していた両班を追っていた。見れば、両班は自分が今、出てきたばかりの路地裏に入ろうとしている。あの古書店に用でもあるのだろうか。
 そのときだった。両班がふと向きを変え、小走りに歩き始めた。まるで町中で知り人を見つけたようである。
 一瞬、サスの中で嫌な予感がした。そして、不幸にも不安は的中した。
 男が凜蓮と雑踏の中で話している。凜蓮はうつむいているが、時折、手のひらで眼を押さえている。
―泣いているのか!?
 あの男が泣かせたのか。いや、昨夜のなりゆきから考えて、凜蓮が泣く理由といえば間違いなくサスにあるに違いない。
 ほどなく、凜蓮は両班について歩き始めた。あの男はあろうことか、凜蓮の手を握っている。一体、あの男は凜蓮をどうするつもりなのだろう。サスは強い警戒心を漲らせ、二人の間に適当な距離を取りながら追跡を始めた。
  
 凜蓮は、ぼんやりと町を歩いていた。家を出てから、どこをどれほどの間、歩いたのかも判らない。今日は崔家にも出勤しなかった。
 サスは昨夜、家を出ていって以来、帰ってきていない。あんな気まずい喧嘩をしたまま、どこに行ったのか心配でならなかった
 凜蓮は帰らない良人を待ちながら、一晩中、まんじりともせず夜を明かした。
 この期に及んでも、凜蓮は良人の身を心配するばかりだった。もしや、そのまま商団に行ったのかもと初めて勤務先の商団を訪ねてみても、サスはまだ今朝は姿を見せていないと言われた。
 人波の中で立ち止まり、手のひらを見つめる。左の薬指には、琥珀の指輪が填っていた。サスが対で持っていれば離れることはないと填めてくれた指輪である。
 指輪を見ている中に、大粒の涙が溢れていた。
―私たちはもう駄目なのかしら。
 絶望と哀しみが一挙に押し寄せて、胸の内で荒れ狂う。
 人差し指で涙を拭った時、背後から肩に置かれた手があった。
―サス!
 凜蓮はほのかな期待を滲ませて振り返る。けれど、視界に入ったのはサスではなく、あの方であった。
「国王殿下」
 愕いて口走ってしまうと、賢宗は?シッ?と自分の指を凜蓮の唇に当てた。
「ここでは、その呼び方は感心しないな」
「では、旦那さま」
「そうだ、それが良い」
 頷いた王の端正な顔から微笑みが消えた。
「どうやら、そなたが期待した待ち人は私ではなかったようだね」
「申し訳―ございません」
 謝る凜蓮に、王が首を振った。
「ほら、また謝る」
 指摘され、凜蓮の眼から涙が零れた。
「凜蓮、何も泣くことはない。私はそなたを責めたわけではないぞ」
 王が狼狽えるのに、凜蓮は言った。
「違うのです、これは」
「何が違う」
「―」
 応えられる状態ではなかった。凜蓮の一度溢れ出した涙は止まらない。王が愕然とした表情で立ち尽くしている。
「何がそんなに哀しくて泣くのだ?」
 王はしばらく泣いている凜蓮を見つめ、溜息をついた。
「その様子では、しばらくは話もできないようだな。おいで」
 王に手を引かれるままに、凜蓮は歩き出した。

 王が凜蓮を連れていったのは、町外れの酒場であった。酒場といっても、妓生はいない。昼間は大衆食堂の色合いが濃く、頼めば酒が出るといったところだ。
 ?酒?と記された幟が三月の風にかすかに揺れている。字は風雨にさらされ、かなり薄く読みにくくなっていた。
 五十ほどの年増の女将とその孫らしい十歳前後の少女が二人で切り盛りしているようだ。王は女将に頼んで、特別に個室を用意して貰った。こういう酒場では、客は大きな露台の上に思い思いに陣取り、注文した品が小卓に乗って運ばれてくる。席が決まっていないのだ。
 そういう席とは別に、独立した室も幾つか兼ね備えている場合が多く、時に逢瀬を持つ男女が密会の場として利用することもあれば、純粋に旅人が宿として宿泊することもある。要するに、一部屋しかない小さな家、離れのようなものである。
 二人はほどなく幾つか並んで建つ室の一つに案内された。離れと離れは適当な間隔を置いて建っている。やはり話し声などが隣に聞こえないように、私的な空間を保っているに相違ない。
 王は女将には
「酒肴は要らぬ。しばらく人は近づけないでくれ」
 と、頼んだ。女将は意味ありげな視線で王と凜蓮を交互に見て、頭を下げた。
「ええええ、邪魔立てはしませんから。どうぞ旦那さま、ごゆっくりとお過ごし下さいませ。お布団はちゃんとお部屋にご用意しておりますので、そちらをお使い下さいまし」
 どうも完全に誤解されているようではあったが、凜蓮は今、そこまで気が回る状態ではない。
 王は離れに入ると、きっちりと戸を閉めた。凜蓮を座らせると、自分は少し間を置いて向かい合った。
「ここならば、誰に話を聞かれる心配もない。凜蓮、一体、何があった? 何がそこまでそなたを哀しませ、苦しめるのだ」