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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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「私のお父さまは私が漢籍を読むのをとても嫌うの。だから、おじさんも同じなのかなと思って」
 俺は真顔で首を振った。
「怒らないさ。女の子でも漢籍を読みたければ読めば良い。おじさんは少なくともそう思っているよ」
「女に学問は必要ないとは思わない?」
「思わない。今に女だから、身分の低い者だから、本を読んではならない、学問をしてはいけないなんていう時代はなくなる。そのときのために、お嬢ちゃん、しっかりと学んでおきなさい。そして、読みたい本は幾らでも読んで良いんだ」
 俺はしゃがみ込んで子どもの目線の高さになった。彼女の黒い瞳をじいっと見つめて励ますように言った。
「君は君のままで良い、何も恥じたり変わろうとする必要はないんだ」
「ありがとう、おじさん。おじさんのようなことを言ってくれた人は初めてよ。お父さまもお母さまも、お母さまの実家のお祖父さまも皆、女に難しい学問はかえって邪魔になるとしか言われないの」
 少女がしょんぼりと肩を落とすのに、俺は彼女の肩を軽く叩いた。
「君の周りには理解のない人が多いのかもしれない。でも、俺は少なくとも女でもあろうが、本を読みたければ読みたいだけ読めば良いと考えている。もし、君が本を読みたくなったら、ここに来ると良い。いつでも好きなだけいて本を読めば良いから」
 理解のない大人たちに囲まれる彼女を見ていると、どうしても出逢ったばかりの女房と重なってしまう。あいつも本が好きで、その日も渋る父親を説き伏せてここに来たくらいだった。
 今は三人の幼い娘たちの子育てや家事に追われて、到底読書どころではないけれど、最初の子が生まれるまではよく店番を手伝いながら、本をここで読んでいたものだ。
 生憎と本好きの両親から生まれたのに、娘たちは本には少しも興味はないらしい。常々、俺はそれを残念に思っていたが、ひょっこりと本好きの可愛いお嬢さんが飛び込んできたのも何かの縁だろう。
 女の子はそれから雨が止むまで、うちの店にいて、ずっと本を読みふけっていた。つくづく本が好きだというのは口だけではないのはよく判った。それに、かなりの難しい漢籍もすらすらと読みこなせるのには愕きだ。
 彼女の父親はこの娘が息子であったらと口惜しく思ったに違いない。俺のいちばん上の娘ときたら、もしかしたら、この子より年上なのかもしれないのに、いまだに?小学?さえろくに読めやしない。俺が文字を教えようとすると、その度に逃げ出してしまう。困ったヤツだ。
 俺は言うのも恥ずかしい話だが、若い頃は科挙を目指して猛勉強していた時代もあった。現に、文科の試験では受験者の中で三番で合格した実績もある。
 では何で、仕官しなかったのかといえば、受験にいったその場でやれ両班だと常民だと身分を傘に来た馬鹿貴族の息子どもに嫌気が差したからだ。受験会場でさえ、こうなのだから、実際に宮仕えをするようになったとしたら、もっと常民出身の俺には風当たりは強かっただろう。
 両班の倅というだけで能なしの癖に威張り腐っている奴らの下で仕えるつもりは毛頭なかったから、俺はあっさりと仕官を止めた。
 ここに本屋を開いたのは、そのときだ。
 女の子は漢籍を黙々と読みながら、時々、俺に難しい語句の意味を質問してくる。俺は子どもにも判りやすく、その意味をかみ砕いて説明してやった。
 楽しい刻はあっという間に過ぎるものだ。気が付けば、雨音はふつりと止み、外はまばゆい陽射しが差している。表にはめ込んだ板戸の隙間から細い光が店内の床に差し込んでいた。
「私、そろそろ行かなきゃ」
 女の子が言い、俺は頷いた。
「あまり遅くなったら、ご両親が心配するだろうよ」
「また来て良い?」
「もちろんだ」
 俺が言ってやると、彼女は嬉しげに笑い、手をひらひらと振って駆けていった。まるで鞠が跳ねるような弾んだ足取りは、彼女の心を何より示しているのだろう。
 俺も久々に手応えのある時間を過ごせて楽しかった。教え甲斐のある弟子を見つけたような気分になっていた。もっとも、女が本を読むのを嫌うという彼女の父からすれば、とんでもないことを娘に教え込む不届き者ということになるだろうが。

 その後、俺はしばらくは期待に胸を弾ませていた。あの子がまた来ないかと待っていたのだ。
 しかし、彼女は来なかった。
 やがて雨の少なかった梅雨が明け、漢陽に酷暑の夏が訪れた。八月に入ったばかりのある昼下がり、店先に顔を覗かせた珍客がいた。
 その時、俺は店の片隅の机に向かい椅子に座っていた。そこはいわば俺の指定席ともいうべき場所だ。大抵、店番をしながら、俺は本を読んでいる。本というのは何度読んでもまた違う顔を見せ、違うことを教えてくれるものだ。
「おじさん」
「お」
 俺は彼女を認め、頬をゆるめた。この子がもう少し歳がいっていたら、こんな場面を女房に見られたら、あらぬ誤解の元となるだろう―そう自覚できるほどに顔が笑み崩れているのが判った。
「やっと来たか」
 俺の言葉に、女の子が可愛らしい顔を曇らせた。
「この間、黙って屋敷を抜け出したのをお父さまに見つかっちゃって。しばら抜け出す隙がなかったのよ」  
 俺は思わず吹き出した。
「何だ、君は黙って、こっそりと出てきたのかい」
「そう、こうやって」
 彼女は身振り手振りを交えて説明する。
「塀を乗り越えてきたのよ」
 まったく、とんだお転婆なお嬢さんだ。本屋の娘が文字を憶えるのが嫌いなのも父親としては困りものだが、いずれは相応の両班家に嫁がせるべき娘がこんなじゃじゃ馬では、この子の父親もさぞ難儀なことだろう!
 俺は笑いながら、奥から彼女に頼まれていた漢籍を取り出してきた。
「君が探していた本はこれだろう?」
「ええ、そう。ありがとう、おじさん」
 よほど嬉しかったのか、彼女が飛びついてきた。子どもらしい甘い匂いが途端に俺の鼻腔をくすぐる。
「私、今日はもう行かなくてはならないの。見つかったら、今度こそ閉じ込められて二度とここにも来られなくなるし」
 それだけ監視の目が厳しいということなのだろう。俺は頷いた。
「来られなくなっては意味がない。また、時間があるときにゆっくりとおいで。それまでその本を読んで、今度来たら、判らないとこを教えてあげよう」
「うん!」
 女の子がにっこりと笑い、それから袖から何かを取り出した。まだふっくらとしたあどけなさの残る頬に両手を当てている。明らかに迷っている顔である。
「何かまだ探している本があるのかい?」
「ううん」
 彼女は首を振り、一端うつむくと弾かれたように顔を上げる。その面にはもう、微塵の迷いもない。まだほんの子どもでこれだけ美しいのだ、あと数年待てば、どれほど美しく花開くだろうか。
 彼女は袖から出したそれを俺に真っすぐに突きだした。
「良かったら、貰って下さらない、おじさん」
 小さな手のひらに載っていたのは、白い手巾だった。ひろげれば、片隅に小さな花の刺繍が入れてある。可憐な黄色い水仙が一輪、咲いていた。
「私が刺したのよ。あまり綺麗じゃないけど」
「これは嬉しいな、ありがとう。心のこもった贈り物だ。大切にするよ」