熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~
『ファソンの秘密の本屋さん』
どうも、この案配ではひと雨来そうだ。俺は深々と溜息を吐き、店の奥へと引っ込んだ。梅雨の狭間の晴れ間続きで、ここ数日、漢陽はからりと晴れた日々が続いていた。
梅雨というのは雨が多い、鬱陶しい時季だと思われがちだが、そうでもない。現に、ここ二、三、年、都はこの時期に雨が極端に少ない。
それが天の怒りだと儂ら民の中にはひそかに言うものがいるようだが、まったく根拠のない妄言だ。王さまが領議政に振り回されてばかりで、自分で政治をしないから、天がお怒りになって雨が降るはずの梅雨に殆ど雨が降らないのだと、世間では専らの噂なのだ。
さりとて、今の王さまはまだ十五歳の若さで、実権は王の母である大妃とその父、つまり王にとっては外祖父ががっちりと握っている。まだ王さまの親政さえ始まっていないのだ。こんなことは広言できるものではないけれど、府院君は政を欲しいままにし、私利私欲を貪っている。俺ら民のことは搾り取る対象くらいにしか思っていないのだ。
しかし、下々の中には、王さまが無能だから天が怒っているのだと言う者は確かにいる。だが、天のお怒りは関係ないだろう。
俺ら民には何の罪もなく、ましてや雲の上の方の不行跡が民にまで及ぶなど、あまりにも割に合わない話ではないか。
物想いに耽っている中に、ポツポツと雨音が聞こえてきた。梅雨の時季の通り雨は、まるで盥をひっくり返したように尋常でない量の雨が降る。商売物の大切な本が濡れては堪らない。
俺は我に返り、慌てて店の戸を閉(た)てようとしたその時。
水しぶきを盛大に跳ね上げて、店に駆け込んだ客がいた。儂は眼をまたたかせ、その小さな客を見た。
「何か用かね?」
俺の検分するかのような視線に、その客はもじもじと恥ずかしげにうつむいた。
「おじさん、私にも本を売って頂ける?」
俺は呆気に取られて、その娘を見た。いや、まだ娘なんて呼べるような歳ではない。せいぜいが十歳になったかならずかといった年頃の女の子だ。
萌葱色のチョゴリに華やかな牡丹色のチマはどう見ても絹で仕立てられていて、この子が良家の―恐らくは両班の令嬢であることを物語っている。
俺は女の子を怯えさせないように、優しい声を出した。
「本よりはまず先に中に入りなさい。折角の服が汚れてしまうよ」
「ありがとう」
女の子はコクリと頷き、物怖じも見せずに足を踏み入れた。
俺はチラリと外を見た。案の定、雨は止むどころか、ますます烈しくなっていっているようである。俺は板戸をきっちりと閉てると、女の子に向き直った。暗いので、燭台に火を入れると、途端に店内が明るくなる。
彼女はちらちらと好奇心を隠せない様子で店内を見回している。
俺は曹(チヨ)ガンドク。そろそろ三十路も半ばになる。この小さな古書店を始めて、もう十数年めだ。小さいながらも品揃えは豊富で、清国渡りの希少な書物もここにはあると評判が口コミでひろがり、両班(ヤンバン)の旦那や医者のような知識階級の輩も訪れる。
王宮の書庫には及ばないだろうが、この?曹さんの本屋?はその次、つまりは朝鮮で二番目くらいには蔵書の豊富さが自慢できると思っている。
エ、何だって常民(サンミン)にすぎない俺に清国渡りの貴重な書物を手に入れることができるのかって?
それについては話せば長くなるから、また今度ということにしてくれないかな。まあ、俺の女房が実は両班の娘なんだ。そうそう、むろん、貴族のお嬢さまと庶民の俺は結婚なんてできるはずじゃない。だけど、女房は身分も家もすべて棄ててきちまったのさ。こんなしがない本屋のためにさ。
とはいえ、女房の親父さんも鬼じゃない、親を棄てて駆け落ち同然に所帯を持った娘のことが気になって、時折、女房はひっそりと実家を訪ねていくんだ。両班を義父と呼ぶののは気が引けるが、舅は通訳官をして清国には何度も使節団の一員として出かけたことがある人で、そのつてで俺の店には彼(か)の国からの貴重な、しかも最新の書物が届くっていうわけさ。
だが、この絡繰りは内緒だぞ。舅は表向きは俺と女房の結婚をいまだに認めちゃいない。もう、所帯を持って十年にもなるし、孫だって三人も生まれてるというのにな。
「おじさん、本を見ても良い?」
ぼんやりとしていた俺の耳を少女の声が打つ。俺は破顔して頷いた。
「もちろんさ。お客さまは神さまだからな」
女の子はにっこりと笑った。愛らしい笑顔に、俺はこの店からそう遠くない仕舞屋で暮らす妻子を思い出す。一番上の娘がこの子と同じくらいの歳だ。
?曹さんの本屋?はけして広くはない店内に縦長の書棚が幾列にも並んでいる。
女の子はその一つ一つを見上げながら、キラキラと眼を輝かせている。よほど、本が好きなのだろう。長年、本屋を営んできた俺には判る。本好きの人間は本をまるで長年探し求めてきた恋人のような恍惚りとした眼で見るからだ。
そう言えば、女房のヤツも初めてここに来たときは、あんな表情をしていた。俺と女房が出会ったのは、そもそも本屋の評判を聞いて訪れた義父、つまり、女房の父親にあいつが伴われてきたからだ。
普通、年頃の若い女が本屋、しかも町外れの小さな古書店なんて興味はないし、来たいとも思わないだろうが、あいつは違った。
そう、今日のこの子のように、大きな瞳を輝かせて本を見ていたっけ。
「あのね、こういう本を探しているの」
その子が伸び上がるようにして言う。俺は男としては小柄な方だが、それでも子どもよりはかなり背が高い。だから、勢い、そのような体勢になってしまうのだ。
俺は、うんうんと頷きながら聞いた。どうも、その子は清国渡りの本を探しているらしい。
「お父さんから頼まれてきたのかい?」
訊ねたのは何の気なしだった。と、その子の大きな黒い瞳が見る間に潤んだ。
「おじさん、嘘をつくのはいけないことよね」
予期もしない質問に、俺は間抜けな声を出した。
「うう、それは嘘をつくのは悪いことだが」
彼女は何か重大な秘密を打ち明けるかのように勿体ぶった口調で言う。
「判った。本当のことを言うわ。おじさん、この本を探しているのは私なの」
「―」
俺は改めて彼女を見た。よくよく見れば、十歳にもなっていないかもしれない。そんな幼い子が何故、清国渡りの難しい本を探しているのだろうか。純粋に疑問に思ったし、興味もあった。
「何故、その本を探しているんだい?」
と、彼女は何を当たり前のことを聞くのだというような顔をした。
「おじさん、本を探すのは読みたいからに決まってるじゃない」
「君が読むのか?」
「ええ」
少女の頭がまたこっくりした。
「しかし、あの本は難しいぞ。漢字ばかりじゃないか」
女の子が少しだけ得意げに鼻をうごめかした。
「私は清国の言葉も読み書きできるの」
言った後で、彼女の声が俄に低くなった。
「―あ、言っちゃった」
怖々と俺の方を窺うように見上げてくる。
「ホウ。それは凄い」
俺は素直に感嘆の言葉を口にした。
彼女がまた恐る恐るといった様子で言う。
「おじさん、怒らないの?」
「怒る? どうして」
女の子が大きな息を吐き出した。
どうも、この案配ではひと雨来そうだ。俺は深々と溜息を吐き、店の奥へと引っ込んだ。梅雨の狭間の晴れ間続きで、ここ数日、漢陽はからりと晴れた日々が続いていた。
梅雨というのは雨が多い、鬱陶しい時季だと思われがちだが、そうでもない。現に、ここ二、三、年、都はこの時期に雨が極端に少ない。
それが天の怒りだと儂ら民の中にはひそかに言うものがいるようだが、まったく根拠のない妄言だ。王さまが領議政に振り回されてばかりで、自分で政治をしないから、天がお怒りになって雨が降るはずの梅雨に殆ど雨が降らないのだと、世間では専らの噂なのだ。
さりとて、今の王さまはまだ十五歳の若さで、実権は王の母である大妃とその父、つまり王にとっては外祖父ががっちりと握っている。まだ王さまの親政さえ始まっていないのだ。こんなことは広言できるものではないけれど、府院君は政を欲しいままにし、私利私欲を貪っている。俺ら民のことは搾り取る対象くらいにしか思っていないのだ。
しかし、下々の中には、王さまが無能だから天が怒っているのだと言う者は確かにいる。だが、天のお怒りは関係ないだろう。
俺ら民には何の罪もなく、ましてや雲の上の方の不行跡が民にまで及ぶなど、あまりにも割に合わない話ではないか。
物想いに耽っている中に、ポツポツと雨音が聞こえてきた。梅雨の時季の通り雨は、まるで盥をひっくり返したように尋常でない量の雨が降る。商売物の大切な本が濡れては堪らない。
俺は我に返り、慌てて店の戸を閉(た)てようとしたその時。
水しぶきを盛大に跳ね上げて、店に駆け込んだ客がいた。儂は眼をまたたかせ、その小さな客を見た。
「何か用かね?」
俺の検分するかのような視線に、その客はもじもじと恥ずかしげにうつむいた。
「おじさん、私にも本を売って頂ける?」
俺は呆気に取られて、その娘を見た。いや、まだ娘なんて呼べるような歳ではない。せいぜいが十歳になったかならずかといった年頃の女の子だ。
萌葱色のチョゴリに華やかな牡丹色のチマはどう見ても絹で仕立てられていて、この子が良家の―恐らくは両班の令嬢であることを物語っている。
俺は女の子を怯えさせないように、優しい声を出した。
「本よりはまず先に中に入りなさい。折角の服が汚れてしまうよ」
「ありがとう」
女の子はコクリと頷き、物怖じも見せずに足を踏み入れた。
俺はチラリと外を見た。案の定、雨は止むどころか、ますます烈しくなっていっているようである。俺は板戸をきっちりと閉てると、女の子に向き直った。暗いので、燭台に火を入れると、途端に店内が明るくなる。
彼女はちらちらと好奇心を隠せない様子で店内を見回している。
俺は曹(チヨ)ガンドク。そろそろ三十路も半ばになる。この小さな古書店を始めて、もう十数年めだ。小さいながらも品揃えは豊富で、清国渡りの希少な書物もここにはあると評判が口コミでひろがり、両班(ヤンバン)の旦那や医者のような知識階級の輩も訪れる。
王宮の書庫には及ばないだろうが、この?曹さんの本屋?はその次、つまりは朝鮮で二番目くらいには蔵書の豊富さが自慢できると思っている。
エ、何だって常民(サンミン)にすぎない俺に清国渡りの貴重な書物を手に入れることができるのかって?
それについては話せば長くなるから、また今度ということにしてくれないかな。まあ、俺の女房が実は両班の娘なんだ。そうそう、むろん、貴族のお嬢さまと庶民の俺は結婚なんてできるはずじゃない。だけど、女房は身分も家もすべて棄ててきちまったのさ。こんなしがない本屋のためにさ。
とはいえ、女房の親父さんも鬼じゃない、親を棄てて駆け落ち同然に所帯を持った娘のことが気になって、時折、女房はひっそりと実家を訪ねていくんだ。両班を義父と呼ぶののは気が引けるが、舅は通訳官をして清国には何度も使節団の一員として出かけたことがある人で、そのつてで俺の店には彼(か)の国からの貴重な、しかも最新の書物が届くっていうわけさ。
だが、この絡繰りは内緒だぞ。舅は表向きは俺と女房の結婚をいまだに認めちゃいない。もう、所帯を持って十年にもなるし、孫だって三人も生まれてるというのにな。
「おじさん、本を見ても良い?」
ぼんやりとしていた俺の耳を少女の声が打つ。俺は破顔して頷いた。
「もちろんさ。お客さまは神さまだからな」
女の子はにっこりと笑った。愛らしい笑顔に、俺はこの店からそう遠くない仕舞屋で暮らす妻子を思い出す。一番上の娘がこの子と同じくらいの歳だ。
?曹さんの本屋?はけして広くはない店内に縦長の書棚が幾列にも並んでいる。
女の子はその一つ一つを見上げながら、キラキラと眼を輝かせている。よほど、本が好きなのだろう。長年、本屋を営んできた俺には判る。本好きの人間は本をまるで長年探し求めてきた恋人のような恍惚りとした眼で見るからだ。
そう言えば、女房のヤツも初めてここに来たときは、あんな表情をしていた。俺と女房が出会ったのは、そもそも本屋の評判を聞いて訪れた義父、つまり、女房の父親にあいつが伴われてきたからだ。
普通、年頃の若い女が本屋、しかも町外れの小さな古書店なんて興味はないし、来たいとも思わないだろうが、あいつは違った。
そう、今日のこの子のように、大きな瞳を輝かせて本を見ていたっけ。
「あのね、こういう本を探しているの」
その子が伸び上がるようにして言う。俺は男としては小柄な方だが、それでも子どもよりはかなり背が高い。だから、勢い、そのような体勢になってしまうのだ。
俺は、うんうんと頷きながら聞いた。どうも、その子は清国渡りの本を探しているらしい。
「お父さんから頼まれてきたのかい?」
訊ねたのは何の気なしだった。と、その子の大きな黒い瞳が見る間に潤んだ。
「おじさん、嘘をつくのはいけないことよね」
予期もしない質問に、俺は間抜けな声を出した。
「うう、それは嘘をつくのは悪いことだが」
彼女は何か重大な秘密を打ち明けるかのように勿体ぶった口調で言う。
「判った。本当のことを言うわ。おじさん、この本を探しているのは私なの」
「―」
俺は改めて彼女を見た。よくよく見れば、十歳にもなっていないかもしれない。そんな幼い子が何故、清国渡りの難しい本を探しているのだろうか。純粋に疑問に思ったし、興味もあった。
「何故、その本を探しているんだい?」
と、彼女は何を当たり前のことを聞くのだというような顔をした。
「おじさん、本を探すのは読みたいからに決まってるじゃない」
「君が読むのか?」
「ええ」
少女の頭がまたこっくりした。
「しかし、あの本は難しいぞ。漢字ばかりじゃないか」
女の子が少しだけ得意げに鼻をうごめかした。
「私は清国の言葉も読み書きできるの」
言った後で、彼女の声が俄に低くなった。
「―あ、言っちゃった」
怖々と俺の方を窺うように見上げてくる。
「ホウ。それは凄い」
俺は素直に感嘆の言葉を口にした。
彼女がまた恐る恐るといった様子で言う。
「おじさん、怒らないの?」
「怒る? どうして」
女の子が大きな息を吐き出した。
作品名:熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~ 作家名:東 めぐみ