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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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 あろうことか、親しげに談笑している男女は、若い男と妻だった。男の方は見るからに上流両班で、上物の衣装が美しい男ぶりに映えている。道行く若い娘がちらちらと彼を頬を染めて見てゆくのも道理だ。
 何故、凜蓮とあのような両班が知り合いなのか、サスには皆目見当もつかなかった。少なくとも、崔氏の親族でもなければ交友関係でもない、初めて見る顔だ。
 大体、あんな美男は一度見たら、なかなか忘れられるものではない。男のサスでさえそうなのだから、人妻とはいえ、凜蓮があの男前と嬉しげに話しているのも無理はない。
 何なんだ、凜蓮のヤツ、あんなに愉しげにして。俺の前では、あんな愉しそうに笑ったこともないのに。
 サスは理不尽な怒りに駆られ、関節が白く浮くほどに拳を握りしめた。
 しかも、男は凜蓮に露店で美しいノリゲを買い与えてやった! 凜蓮は頬を上気させて男を見上げている。
―あんなノリゲが欲しければ、俺が買ってやるのに。
 現在勤めている商団は最近、とみに羽振りも良い。行首がやり手で、商売上手だからだ。ゆえに、サスもそれなりの報酬を手にしている。町の露店で売っているノリゲの一つくらい、妻が欲しいといえばすぐに買うことはできる。その程度の甲斐性はあるつもりなのに、凜蓮はそこまで自分を甲斐性なしの男だと侮っているのだろうか。
 息を呑んで二人を見つめていたサスは愕然とした。愕きのあまり、ヒュッと息を呑む音さえ聞こえたような気がする。
 両班の男が凜蓮に向かって、手を伸ばした。男は凜蓮のほつれ毛を愛情のこもった手つきで撫でつけている。
―あの眼は、男が女を見る眼だ。
 サスも男だから、すぐに判った。あのにやけた男は凜蓮に気がある。あの若い両班が妻を見つめるまなざしは、はっきりと男の欲望を秘めていた。凜蓮は人妻になったといっても、まだまだ初だから、気付かないのだろう。
 しかも、あの男の手つきも気に入らない。あの馴れ馴れしげな態度は、到底赤の他人とは思えないものがあった。あまり考えたくはないことだけれど、男女の仲になった者同士にしか通じない親密さのようなものが感じられる。
 あの両班は俺の妻に触れることに、何の躊躇いもなかった!
 だが、と、サスは想いに耽った。凜蓮は祝言の夜、男を知らなかった。それは彼女を抱いたサスがよく知っている。彼女がサスに抱かれるまで、彼女を抱いた男はいない。なのに、何故、あの両班と凜蓮の秘密めいた親密さに男女の仲を感じてしまったのだろうか。
 あの男は、凜蓮とどういう関係なんだ! 
 サスの握りしめた拳が小刻みに震えた。

 サスは剣を正眼に構え、深く息を吸った。眼を固く瞑り、呼吸を腹の底から整える。
 まだ寒さ厳しい二月の終わりだというこの季節、サスは片肌脱いでいる。鍛え抜かれた逞しい裸身はどこまでも見事だった。小麦色の剥き出しになった二の腕や背中、整った顔には汗の雫が光っている。
 ふいに眼裏に一つの光景が鮮やかに甦る。
 凜蓮と美しい両班の男が見つめ合っている。男のまなざしは明らかに熱を秘めていて、対する凜蓮も頬を初々しく染めて男を見上げている。
 凜蓮が果たして、俺をあんな一途な眼で見つめてきたことがあったか?
 己れに問いかけても、返事はない。
「タァーっ」
 サスは眼前にちらつく妄想を切り裂くように、剣をふるった。
「ヤァー」
 このままでは遠からず自分は醜い嫉妬の劫火に身体の芯まで灼き尽くされて狂ってしまうだろう。
 身の内に渦巻く嫉妬をぶつけるように、彼は夢中で剣を振るい続ける。
 ひと刹那の後。気が付けば、彼の周囲には無残に花びらを散らせた椿がひっそりと佇んでいた。
 ここは彼が護衛を務める行首が率いる商団である。商団の建物がある庭の奥まった場所は、サスのお気に入りだった。凜蓮が愛する椿の花がたくさん植わっている。彼は休憩時間にはよくここに来た。
 椿の花を見ていると、妻と一緒にいるかのような気持ちになれる。無口だけれど、人一倍情熱を秘めた女。凜蓮は、そういう女だった。
 サスにとって、凜蓮はいつも眼の届く場所にいるのが当たり前だった。それは凜蓮が幼い少女だった頃から、今も変わらない。主家のお嬢さまであっても、サスの想いは変わらなかった。彼にとって生命を賭けても守るべき女は凜蓮ただ一人。
 その誓いは、あの日―椿の花冠を戴いた凜蓮に初めて求婚したときから続いている。
―私もサスが大好きよ。私が大きくなったら、必ずお嫁さんにしてね。
 凜蓮の無邪気な声が耳に響く。紅い花びらの花冠を被った凜蓮は、サスにとっては王宮に住まう本物の王女よりも大切な尊い存在となった。
 凜蓮が黒い瞳を輝かせてサスを見上げていた、あの花冠の誓いの日をサスは今も忘れたことはない。けれど今、凜蓮の瞳に映っているのは、そも誰なのだろう?
 もしかしたら、彼女が今、一途な瞳で見つめているのはサスではなく、あの両班ではないのか? いつまでも甲斐性なしの自分より、凜蓮はもっと別の男を選ぼうとしているのではないのか。
 そういえばと、サスは昨夜の凜蓮の態度を思い出した。凜蓮が崔家で倒れたという話を父から聞き、サスは慌てた。商団の行首に事の次第を告げ、慌てふためいて帰宅したのだ。
 しかも、妻が倒れたのは一日前のことだったという。何故、自分に話してくれなかったのか。もどかしさのあまり、つい声を荒げて妻を詰問してしまった。妻は怯えて自分を見ていた―。
 サスにしてみれば、凜蓮を心配するがゆえのことだったのだが、凜蓮はただ?大丈夫?と繰り返すだけだ。
―どんな些細なことでも、あなたに話すわ。
 最後には約束もしてくれた。その後、凜蓮の柔らかな良い匂いのする身体を抱きしめている中に、久しく彼女を抱いていないサスの身体が反応した。
 そろそろ凜蓮も自分を受け容れてくれるのではないかと期待したのだけれど―。
 凜蓮はサスがそれとなく誘うと、身を強ばらせ、怒鳴りつけたときよりも怯えてサスの腕から逃れようとした。あのときの衝撃は烈しかった。
 自分は凜蓮に嫌われている―。はっきりとそう悟った。確かに祝言の夜、嫌がる彼女の意思に反して抱いたのは悪かった。でも、その後、誤解も解けて凜蓮はサスに心を開いてくれたのではないのか。心を開いたとはいっても、初めての夜に痛みを与えてしまったサスは、辛抱強く待ち続けたつもりだ。
 とはいえ、初夜から三ヶ月もの間、一度も凜蓮を抱いていない。幾ら何でも、彼女ももう心だけでなく身体も開いてくれるはずと甘い期待をしていた自分が愚かだったのか。
―凜蓮は誰にも渡さない!
 突如として激情が彼の中で湧き起こった。それは嵐のように彼の中で吹き荒れ、サスは感情の導くままに剣を縦横無尽に操った。
 ひとときの嵐が吹き去った後、彼は茫然とその場に立ち尽くした。彼を取り囲む椿の樹から、花という花はすべてなくなっていた。立ち尽くす彼の足許に深紅の花びら、或いは花そのものが横たわっている。それらは、彼の眼には、血を流し、ぐったりと倒れ伏す美しい女に見えた。
 俺は凜蓮をそこまで愛しているのか。
 彼は慄然として、まるで鮮血のように地面を彩る花びらを見つめた。