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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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 八百屋は珍しく店を閉めている。凜蓮はいつもは八百屋が店を出しているその傍らの露店を眺めた。小間物屋で、腰の曲がった老人が店番をしている。
 店先には美しいノリゲがたくさんつり下げられ、初春の風にかすかに揺れていた。どれも綺麗だが、殊に椿を象った玉に、朱色の房飾りがついた帯飾りが見事だ。凜蓮は魅入られたように、椿のノリゲに眺め入った。
「凜蓮」
 聞き慣れぬ男の声が背後でして、凜蓮は愕いて振り返る。
 眼前に、長身の男が佇んでいた。薄紫のパジチョゴリをすっきりと着こなした若い両班の男である。男が目深に被っていた帽子を心もち持ち上げ、顔を見せた。
「―殿下(チョナー)」
 凜蓮は眼を見開いた。慌てて拝礼しようとするのに、男が笑いを含んだ声で制止する。
「よもや町中で騒ぎを起こすつもりではあるまいな? 私の素性が知れたら、少し面倒ではないのか」
「申し訳ございません」
 狼狽えて謝るのに、男が笑い声を上げる。
「相変わらず、謝ってばかりだな、そなたは。何も悪いことはしていないのだから、そなたが謝る必要はないというのに」
 端正な面立ちのこの貴公子こそが、国王賢宗であるとは、まさか道を行き交う人々は想像だにするまい。聖君(ソングン)と民から尊崇され、弱冠二十二歳で朝廷の老獪な大臣さえを意のままにする国王。ではあるが、実はこの王さまは時折、?民情視察?と称してお忍びで伴も連れず、町中をうろつくのが日課であった。
 凜蓮は賢宗の後宮で二ヶ月を過ごしたものの、その?日課?についてはまったく与り知らず、下町の雑踏で国王と遭遇して、もう青天の霹靂である。
「達者にしているか?」
 賢宗に問われ、凜蓮は微笑んで頷いた。
「お陰さまで、つつがなく過ごしております」
 賢宗は首を傾げ、凜蓮の顔を見つめた。
「それにしては、浮かない顔だ。祝言を挙げてまだみ月ほどではないか。新婚真っ盛りだというのに、あまり嬉しそうではないように見える」
 凜蓮は首を振った。
「そのようなことはありません。祝言の日には畏れ多くも中殿さまにお越し頂き、ありがたいことだと思っております」
 王が笑った。
「私は流石に行かぬ方が良いと止めたのだがな。あれが言い出せばきかぬということは、そなたも知っているだろう?」
 凜蓮は心から言った。
「中殿さまにご参列頂き、私は本当に嬉しうございました、殿下。私の親族で式に出てくれたのは兄とその友人数人だけだったものですから」
「―」
 王が言葉を失った。
「吏判は娘の祝言に出なかったのか?」
「仕方のないことです。私は父の面目ばかりか、一族の体面に泥を塗るようなことをしでかした娘ですから」
 刹那、王は何かに耐えるような表情になった。
「済まぬ。そなたには幾ら詫びたとて済まぬことをした」
 凜蓮は狼狽えた。
「いいえ、どうか謝らないで下さい。殿下、私は今、本当に幸せなのです。あのままずっと後宮にいたら、今の幸せを知ることはありませんでした。ゆえに、殿下のお計らいには感謝しているのです」
「そうか」
 王は頷き、その場の雰囲気を変えるように言った。
「それはそうと、先ほどからノリゲを熱心に見ておったが」
 凜蓮は頬を染めた。
「お恥ずかしうございます。いつもは隣の八百屋で夕食の買い物をして帰るのですが、今日は店を閉めているらしいので」
 王は笑顔で頷き、店番をしていた老人に気さくに声をかけた。
「ご老人(オルシン)、このノリゲを一つ貰えるかな」
「どうも、ありがとうございます、旦那さま」
 王が懐から財布を出して金を払うのを、凜蓮は茫然と見ていた。
「久しぶりに逢ったのだ、再会の記念に」
 王から渡されたノリゲをしかし、凜蓮は受け取らなかった。
「なりません。私は殿下からそのようなものを頂く立場ではございませんので」
 二人が押し問答をしているのを見、老人が言った。
「夫婦喧嘩は犬も食わんと言うが」
 チラリと凜蓮を見て続ける。
「奥さま、人前で殿方からの贈り物を突き返すような真似をしてはいけませんぞ。ご立派な両班に恥をかかせることになります」
「あ、あの、私はこの方の」
 訂正しようとする凜蓮の肩を賢宗が抱いた。
「夫人、ご老人の忠言を無下にするものではない。ここはひとまずゆこう」
 王が小声で囁いた。
「勘違いしているだけだ。無理に否定せずとも良い」
「はい」
 凜蓮は素直に頷き、二人は並んで人通りの多い道を歩き始めた。
「殿下、やはりこれは」
 受け取れないと返そうとするのに、王は立ち止まり腕組みした。
「ホホウ、そなたがそのように頑固だとは知らなかったぞ。私はどうやら、つくづく頑固な女に縁があるらしい」
 ?頑固?な女というのが王妃のファソンであることは凜蓮にもすぐ判った。
 王が優しい笑顔を浮かべる。
「思えば、後宮にいる間、私は何もそなたに贈り物一つしたことがなかった。せめて、これくらいはさせてくれ」
 そうまで言われて、受け取らないわけにはゆかない。凜蓮は消え入るような声で礼を言った。
「ありがとうございます」
 王が空を仰ぐ。漢陽の空はもう冬のものではなく、少し温かみを増した水色に染まっている。
「思えば、そなたは一時とはいえ、私の?妻?だったのだな。そなたと宮殿で過ごした日々が随分と遠い昔のようだ」
「本当に」
 共感を籠めて頷く。刹那、春の風が二人の間を駆け抜けていった。気まぐれな風は凜蓮の髪やチマの裾を揺らして通りすぎる。
 道に伸びた早春の陽差しに心もち眼を眇め、王がついと手を伸ばした。
「綺麗になったな、凜蓮。やはり女とは惚れた男と暮らすと、このように変わるものか」
「殿下?」
 見上げる凜蓮の額にわずかに落ちたひと筋の髪を、王は優しい仕種で撫でつけた。
「そなたを手放したことを今、私が後悔していると申したら、そなたはいかがする?」
「え―」
 咄嗟には王の言葉の意味を掴みかねた凜蓮だったが、やがて、その可愛らしい顔が強ばった。
 と、王が軽やかな声で笑い出した。
「冗談だ、冗談。私はそなたと約束した。私も大切な者の手を放さぬゆえ、そなたもサスの手を二度と放すなと。あの約束を違えるつもりはない」
 しばらく近況を話し合った後、凜蓮は王に深々と頭を下げて家に向かった。
 若き王は雑踏に紛れる?元妻?をしばらく見送っていたが、その顔には複雑なものが浮かんでいた。
「大切な者が一人とは限らぬと、何故、あの者が後宮にいたときに気付かなかったのか」
 王妃として迎えたファソンだけを寵愛し、王妃以外の女は欲しくないとさえ広言した賢宗。その若き王が初めて王妃以外の女人に心を揺らせた瞬間だった。
 そして、二人のこの邂逅を少し離れた物陰から見ていた者がいたことを、王はむろん凜蓮が知る由もなかった。
  
 サスは我が眼を疑った。いや、この期に及んで、我が身の気が狂ったのかとさえ思った。
 眼前でくりひろげられる光景がただただ信じられなかった。
 彼は今、蒸し饅頭屋が屋台を出しているその傍らに立っている。屋台の真横にいるので、同じ通りの斜向かいで立ち話している二人からは死角になっているはずだ。