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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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 サスの子を胎内に宿していると知ってからも、凜蓮は良人にその事実を告げられないでいた。きっと伝えれば、サスは大歓びするに違いない。幼い頃、三つ下の凜蓮の弟を自分の弟のように可愛がって面倒を見ていたサスを思い出す。
 一体、サスは誰に対しても無愛想だ。見かけも凄腕の剣士そのものだし、何より彼が纏う空気には殺気とまではゆかないが、抜き身の刃のようなものがある。容貌も整ってはいるものの、切れ長の眼には隠しがたい鋭さが宿っているから、大抵の人はサスと道ですれ違えば、そそくさと通りすぎようとする。
 精悍ではあるけれど強面の外見にも物怖じせず、サスに近寄るのは幼い子どもだけだ。子どもは大人と違って見かけに惑わされない。人の本質を本能的に見極めることのできる子どもは、サスの優しい心を理解できるのか、怖れることなくサスに近づき、サスもまた見知らぬ通りすがりの子どもに対してでさえ、優しい笑みを浮かべ構ってやった。
 サスが子ども好きなのは明らかだ。ましてや我が子ができたと知れば、どれだけ歓ぶことか。そう思っても、凜蓮はサスにどうしても懐妊を告げられなかった。
 サスは今、人生の大きな転換期を迎えようとしている。この選択一つで、サスの人生ばかりか凜蓮の一生も決まる。凜蓮は父にも宣言したように、サスの選択に従うつもりだった。今のまま常民として生涯を終えても構いはしない。二度と両班に戻れなくても、サスさえずっと傍にいてくれれば良かった。
 たとえどのような贅沢な暮らしができたとしても、サスが隣にいなければ何の意味もない。サスの妻として彼と暮らして、改めてサスがどれだけ大切な男かを知ったのだ。
 大切な局面を迎えている良人の心を乱したくない。その一心で、凜蓮は懐妊を良人に告げるのをしばらく先延ばしにしようと決めたのであった。
 崔家で倒れた翌日の夜、サスは珍しく黄昏刻には帰宅した。
「お帰りなさい、早かったのね」
 凜蓮はその日もいつものように朝、崔家に行き、一日、雑用に追われた。一度、厨房で汁物の火加減を見ていた時、母が顔を見せた。
 厨房にいた数人の女中は滅多にここまで来ない奥さまが来て、慌てた。凜蓮も含めて皆、頭を下げた。母は凜蓮の元気な姿を見て安堵の表情を浮かべ、何も言わずに去っていった。
 母が娘を案じて様子見に来たのは間違いなかった。その他は特に変わったこともなく一日が過ぎ、凜蓮は夕方には仕事を終えて我が家に戻ったのである。
 父の言うとおりで、特に身重になったからといって、崔家での凜蓮の扱いも立ち位置もも変わらなかった。
 凜蓮が声をかけても、サスは何も言わない。常以上にむっつりと怖い顔をして凜蓮を見ている。
「凜蓮」
「はい」
 凜蓮は良人を見つめ、小首を傾げた。クスリと笑い、サスの眉間に人差し指を添える。
「そんなに怖い顔をしていては、皺が消えなくなるわよ?」
「戯れ言を申している場合ではない!」
 サスの怒声が響き渡り、凜蓮はピクリと身を震わせた。
「サス、どうしたの、何を怒っているの?」
 怖々と見上げれば、サスは溜息をつき、そうでなくとも無造作に結わえただけの髪をわしわしと掻き乱した。
「済まん。別に、そなたを怖がらせるつもりはなかった。だが―」
 サスはまた苛々と髪を掻きむしった。
「俺は言葉を弄するのは苦手で、性に合わん。ゆえに、はっきりと訊くが、昨日、お屋敷で倒れたというのは本当なのか?」
 凜蓮は小さく頷いた。
 また溜息。サスは判らないというように首を振る。
「凜蓮、俺はそれほど頼りない男か?」
「何で、そんなことを訊くの、サス」
 サスがまた声を荒げた。
「当たり前だ! 大切な妻が倒れたというのに、どうして俺が知らん顔ができる?」
 凜蓮はハッとした。もしやサスは懐妊のことを知ったのでは。崔家で倒れたのを知ったのなら、懐妊を彼が知っていてもおかしくはない。真っ先に彼に告げるべきなのに告げなくて、怒っているのだろう。
「どうして知って―」
 言いかけた凜蓮に、サスが肩を竦めた。
「俺の親父は崔家の執事をしているんだぞ。親父はお屋敷内で起こったどんな些細な出来事でも把握している」
 サスの母は女中頭を長年勤めていたが、数年前に病で亡くなっている。
「お義父さまから聞いたのね」
「親父も心配していた。お嬢さま育ちだから、慣れない下働きの仕事で疲れているのではないかと言っていた」
「心配かけて、ごめんさない」
 うつむいた凜蓮の肩にサスの大きな手が置かれた。
「凜蓮、俺は別に怒っているんじゃない。俺が心外なのは、そなたが倒れたことを俺に話さなかったことだ」
「それは」
 皆まで言えず、凜蓮はサスの逞しい腕に強く抱きしめられた。
「そなたがいなくなったらと想像しただけで、気が狂いそうだ。頼むから、身体を大切にしてくれ」
「大げさね。少し目眩がしただけなのに」
「だが、父はそなたが半日ほど母屋で寝んでいたと話していたぞ」
 母屋というのは、主人やその家族が起居する居住区である。
「お父さまとお母さまが心配しすぎたのよ。それほどたいしたこともないのに」
 サスはまだ懐妊を知らないようである。恐らく両親は信頼する執事にさえ、そのことを話してはいないのだろう。
 どこかでホッとしつつ、凜蓮は笑顔を拵えた。
「これからは、どんな些細なことでもあなたに話すわ」
「約束だぞ?」
「ええ」
 凜蓮を腕に閉じ込めたサスが、恍惚りと呟いた。
「凜蓮の身体は柔らかいな。それに、良い香りがする」
 静かな時間が流れた。サスは凜蓮の漆黒の髪に唇を落とした。
「身体の方が大丈夫なようなら、今夜は早く寝もうか?」
 凜蓮はハッと我に返り、サスを見上げた。切れ長の美しい双眸には凜蓮でさえ判るほど、はっきりと男の欲望が閃いている。
 久しぶりに見る良人の?男?の顔に、凜蓮は狼狽えた。次いで、初夜にサスから与えられた破瓜の痛みが蘇り、蒼褪めた。
「あの、私」
 凜蓮ははっきりとした怯えを宿した眼でサスを見つめ、サスから離れようと身を捩った。
「凜蓮―」
 サスが凜蓮の背中に回していた手を放す。彼は愕然とした様子で妻を見た。
「やっぱり、昨日の今日だから、無理はしない方が良いと思うの、だから」
 今夜は許して欲しいと眼で訴えれば、サスは辛そうに眼を伏せた。
「判った。体調が思わしくないのに、無理にとは言わない」
 サスの表情は明らかに傷ついたようだった。凜蓮は自分の言葉を一瞬後悔したけれど、かといって、祝言のあの夜の痛みを思い出しただけで、怖ろしさに身体が竦んでしまい、良人に何を言うこともできなかった。
 そんな凜蓮をサスは哀しげな瞳で見ていたが、物想いに沈む凜蓮が気付くことはなかったのである。

 翌日の昼下がり、凜蓮は町の大通りを歩いていた。朴先生の処方した薬はよく効いた。あれほど烈しかった悪阻もここのところは落ち着いている。しかし、目眩の方は時折襲ってきて、今日も厨房で倒れかけた。
 年配の女中が奥さま(母)に知らせ、心配した母は凜蓮に今日はもう帰って休むようにと言い渡したのだ。