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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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「去年の十二月の初めですもの。すぐに懐妊していれば、もうそろそろ判る頃ですわ」
「うむ」
 父は腕組みをして唸った。
 一方、凜蓮は両親の会話をろくに聞いてはいなかった。床を吐瀉物で汚してしまったことに動転していて、慌てて両手をついた。
「申し訳ありません。すぐに片付けます」
 蹲っていた体勢から立ち上がりかけ、今度はふらついて床に倒れた。
「凜蓮!」
 母が涙声で呼ぶのを凜蓮は薄れゆく意識の底で聞いた。
「あなた、もう許してやって下さいな。元々、凜蓮とサスは相思相愛であったのを私たちが無理に別れさせ、嫌がる凜蓮を後宮に納れたのです。ですが、もう国王殿下のお許しも戴き、凜蓮はサスと正式な夫婦となりました。まもなく孫も生まれるというのに、いつまで凜蓮を使用人扱いなさるおつもりなのですか?」
  
 次に目覚めた時、凜蓮は見慣れた自室にいた。娘時代に暮らしていた懐かしい居室だ。両班の令嬢の部屋らしく、薄紅の紗の帳(とばり)や華やかな蝶のノリゲなど瀟洒で女性らしい飾り付けが施されている。
 意外なことに、枕辺にいたのは母ではなく、父だった。父ドゴムは凜蓮が目覚めたのを見るや、あからさまに安堵の表情を浮かべた。
「大監さま(テーガンナーリ)」
 ここのところ、ついぞ使ったことのない贅沢な絹布団もかつては当たり前のものだった。慌てて身を起こそうとするのに、父が手で制した。
「このようなときでも、律儀に大監と儂を呼ぶとは、まったく、そなたという娘は幼いときから大人しい癖に頑固であったな」
 ドゴムは苦笑めいた笑いを刻んだ。
「眠っている間、朴先生に診て頂いた。懐妊しているそうだ。今、三ヶ月に入ったところらしい」
 朴先生というのは、崔家の掛かり付け医だ。高名な医者で、腕は確かだが、両班の、しかも懇意にしている家にしか往診には来ないというなかなか偏屈な医者である。凜蓮は幼いときから、この老医に診て貰ってきた。
「そう、ですか」
 凜蓮は眼を閉じ、そっとお腹を押さえた。
 赤ちゃん、私とサスの赤ちゃんが今、もうここで育っている―。サスに抱かれたのは実のところ、祝言の夜、手籠めのように抱かれたあの一夜だけだ。あのたった一夜で、自分は身籠もったというのか。
 あの夜の営みは正直、凜蓮に苦痛と恐怖しか残さなかった。その影響で、どうしても今も隣に横たわったサスが手を伸ばしてくると、緊張に身体が硬くなってしまう。サスがそのことに気付かないはずはなく、彼は彼で初めて男を受け容れた凜蓮を手荒く抱いてしまい、いたく後悔しているらしい。
 そのせいか、サスも自重しているようで、二人の間には最初の夜以来、夫婦の交わりはない。
「凜蓮、このことは本決まりになってから話そうと思っていたのだが」
 ドゴムはそう前置きして、愕くべきことを語った。崔氏の分家の一つに後嗣がなく、このままでは家門が絶えてしまう危機に陥っていること。今の当主夫婦は老年で、これから一緒に暮らして自分たちの面倒を見てくれ、家門を継いでくれる若い夫婦を捜していること。
「両班といっても名ばかりの逼塞した家門でな。たいした家ではない。さりながら、始祖は崔氏本家、つまりこの家の当主の弟から始まっておるゆえ、血筋は確かだ。この家門を継ぐ気はないかとサスに少し前、訊ねておる」
「お父さま」
 父が笑った。
「あやつもそなたに負けず律儀で強情ゆえ、今、世話になっている商団の行首にまずは進退伺い立ててみると申しておったわ。返答は行首の意向を聞いてからということであった」
 その瞬間、凜蓮はハッとした。いつだったか、商団から帰宅が遅れたサスが大切な話を行首としたと話していた。その時、凜蓮が大切な話とは何なのかと訊ねても、サスは笑って教えてはくれなかった。
―きちんと話が決まったら、必ずそなたにも話す。
 と、約束してくれたのは良かったが、あれから話はそのまになっていて、凜蓮も忘れかけていたほどだった。
 多分、サスのいう?大切な話?というのは、この家門相続の話に違いない。
「サスは常民ではあるが、そのようなことは手を回せば何とでもなる。要はサスにその気があるかどうか、だ。商団の行首は儂があいつを追放して行き場がなくなった時、サスを拾って面倒を見た人物だ。その大恩ある今の主人を立てるとは、いかにもサスらしい」
 折角の申し出をすんなりと受けなかったというのに、父の口調は存外に明るかった。サスが目先の立身や欲よりは行首への恩義を重んじたことを、父はむしろ望ましいと受け止めているようにも見える。
 確かに、父の言うとおりだ。普通なら目先の欲に眼が眩み、商団の用心棒の仕事などさっさと放り出して、両班になる道を選ぶはずだ。朝鮮は徹底した身分社会である。よほどの幸運に恵まれない限り、常民に生まれれば一生、常民のままで、両班に身分が上がるなど滅多にないことだ。
 ドゴムは息をつき、続けた。
「凜蓮、儂は朝廷で実権を握る野心をそなたに賭けていた。そなたが見事、国王殿下のお心を射止め、ご寵愛を頂き、世子さまの母となる日を夢見ていたのだ」
「お父さまのお心に添うことができませんでした。お役に立てなかったことは今も申し訳なく思っています」
 それは心からの言葉であった。両班として生まれ立身を願うなら、娘を国王に嫁がせ外戚となるのは当たり前のことだ。だが、我が身はその役目を果たし、家門に興隆をもたらすことはできなかった。そういう意味では、役立たずの娘だ。
 ドゴムは声を上げて笑った。
「いや、今となっては昔の夢だ。サスは身分は低いが、なかなか見所のある若者だ。だからこそ、儂もあれに幼いときから剣術の師匠をつけ、我が息子たちと共に読み書き学問を学ばせた」
 父は遠くを見るような眼になった。
「回り道をしたが、或いは本来あるべき場所にそれぞれが落ち着いたのやもしれぬ。凜蓮、サスがこの話を承諾すれば、そなたは再び両班の身分に戻れる」
「ありがたいとは思いますが、お父さま、私はサスにこの話を無理に勧めるつもりは」
 父は凜蓮に皆まで言わせなかった。
「判っておる。サスもそなたも律儀な頑固者だと先刻申したではないか。そなたらは真に似合いの夫婦ではないか。凜蓮、儂もサスにその気がないのにごり押しするつもりはない。商団の用心棒か、崔家の執事か、両班になるか。あやつの心一つで決まる、そういうことだ」
 父はしばらく凜蓮を見つめていたかと思うと、立ち上がった。
「今日はここでゆっくりと休んでいきなさい。悪阻が少し烈しいようだから、朴先生が煎じ薬を置いてゆかれた。体調が悪いなら、しばらく仕事には出てこなくて良い。だが、サスが心を決めるまで、儂はそなたを特別扱いするつもりはない。明日からまたここに来るつもりなら、儂の娘ではなく、下働きの心構えで来るように」
 凜蓮の律儀で頑固な性格は、もしかしたら父譲りなのかもしれない。凜蓮は父が去った後、ふっと思った。それでも、父がサスに両班になるという道を示したのは、やはり凜蓮のことを思ってであろうとは容易に想像できた。
―お父さま、ありがとう。
 凜蓮は久しぶりに柔らかな布団で陽が落ちるまで、ゆっくりと眠ったのだった。

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