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熱愛~国王の契約花嫁~外伝其の一~

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 眼にも彩な色とりどりの絹の刺繍靴を眺めていたときのことだ。往来の向こうから、女中を連れた若い女が歩いてくるのが眼に入った。気付かれる前に顔を背けたものの、相手が凜蓮を見つける方が早かったようである。
「あら、崔家のお嬢さまではありませんこと」
 聞き憶えのある皮肉たっぷりの声は、元兄嫁のハヨンであった。
 知らん顔もできず、凜蓮はハヨンに向き直り頭を下げた。
「お久しぶりです、お身体の方はもう大丈夫ですか?」
 無難な挨拶をしたつもりだったのだが。
 ハヨンの細い眉がきりきりとつり上がった。
「お聞きしましたわ。お兄さまはもう、次の奥方をお捜しになっているそうね」
「それは」
 何と応えるべきか、凜蓮は口ごもった。まさか、離婚して清々したと兄の本音を伝えるわけにはゆかないだろう。それにしても、情報を察知するのが早いことだ。
「まだ子を失ったばかりだというのに、早々に再婚なさるおつもりとは、そのように薄情な方であったとは存じませんでしたわ」
 凜蓮の耳奥で先日、聞いたばかりの兄の言葉がまざまざと甦った。
―正式に離婚したといっても、何しろまだ子どもを亡くしたばかりでもあるしな。せめてしばらくは独り身で色々と考えたいよ。
 兄はけして赤ン坊のことを忘れてはいない。どうして自分が見たわけでもないのに、この女は兄が薄情だと決めつけるのだろう。
 軽い怒りを憶え、凜蓮はつい口にしてしまった。
「兄は死んだ娘のことを忘れたわけではないと思います」
「あら、そう。子どもを亡くしたばかりの方がもう再婚相手を探していると聞いたので、少し愕いたのよ」
 ハヨンはつんと顎先を逸らして言い。凜蓮を睨めつけた。
「それにしても、崔家はあなたが戻ってきてから、不幸続きね」
 凜蓮は何も言わず、かつては?義姉?と呼んだ女を見つめた。
「私も早いところ、あの家と縁が切れて幸いだったわ。あのまま崔家にいれば、子どもだけでなく自分の生命まで失うこともあり得たかもしれない」
「ハヨンさま、それは」
 あまりの暴言に凜蓮が言い返そうとするのに、ハヨンが口の端を引き上げた。
「思ったことを口にしただけよ。私が思うに、あなたは疫病神ね。あなたがあの家から出ていかない限り、崔家には次々に禍が降りかかるでしょうよ」
 せいぜい、あなた自身も気を付けなさい。
 ハヨンは棄て科白とも取れる科白を残し、赤ら顔の太った若い女中を連れて雑踏に消えた。気のせいか、女中までもが凜蓮を睨みつけているように見えた。
 だが、今の凜蓮はその女中よりもみすぼらしい身なりをしているはずだ。洗いざらしの木綿のチマチョゴリは、凜蓮がその日暮らしであることを何より物語っている。
 恐らくと、凜蓮は考えた。ハヨンはいまだに兄に未練を持っているに違いない。だからこそ、兄の動向を探り、再婚相手がどうのと嘘か本当かも知れない情報で気を揉んでいるのだ。
 ハヨンがもっと優しく気立ての良い女であれば、凜蓮も兄との復縁を取り持ったかもしれない。いや、ハヨンがそんな女性であれば、兄がそもそも別れたいと言い出すこともなかったはずだ。
 ハヨンの言ではないけれど、兄の方もハヨンと縁が切れて幸いだったのかもしれない。今までできるだけハヨンを好意的に見ようと努力してきたが、今日ばかりは凜蓮もかつての兄嫁の性格の悪さを認めざるを得なかった。
 辛いことが多い中、良人と兄の理解がなければ、幾ら愛するサスとの生活のためでも、凜蓮は新しい生活に馴染めず逃げ出していたかもしれない。
 ハヨンに疫病神呼ばわりされたその日から更に日は過ぎた。
 二月の下旬のある朝、凜蓮はいつものように崔家に出向いた。弟のジヨンの婚約が正式に整い、近々結納が交わされるとの朗報がもたらされたのはつい昨日のことだ。
 今年になって嫡子のソギルの元妻ハヨンが流産、挙げ句には離縁となり、崔氏は何とはなしに陰鬱な空気に閉ざされていた。けれど、ジヨンがほどなく結婚するという明るい知らせに、季節だけでなく崔家にも春が来たような華やぎに包まれているようだ。
 結納の儀のことで、仲人を務める戸?判書とその夫人が午後から訪ねてくるとのことで、その日は早朝から厨房は慌ただしかった。
 夕食を戸?判書夫妻に出すため、ご馳走を作るのに古参の女中たちは皆大わらわである。昼過ぎに昼食の支度が調った。
 年嵩の女中が申し訳なさそうに凜蓮に言った。
「申し訳ありませんけど、お昼の御膳を旦那さまと奥さまにお持ちして貰えますか?」
「判りました」
 普段、他の女中たちが凜蓮にこんなことを頼むことはない。元令嬢が女中となり、両親を?主人?として仕える―前代未聞のことに、彼女たちもできるだけ凜蓮を両親、つまり吏?判書夫妻に近づけないように配慮してくれていた。
 しかし、今日ばかりは夕方から戸?判書夫妻の来訪がある。よほど忙しいのだろうと凜蓮は快く引き受けた。
 御膳を室に運んで、後は給仕をすれば良いだけの話だ。自分はもう令嬢ではなく?女中?なのだから、仕事を選ぶ我が儘は言えない。
 凜蓮はまだ湯気の上がるご馳走を乗せた小卓を主人の居室に運んだ。珍しく今日、両親は一緒に食事を取るようである。小卓には二人分の食事が並んでいる。
 かつては自分もこのようなご馳走を普通に食べていたのかと、今では懐かしく思い出すほどその日暮らしにも慣れた。慎ましやかな食事でも愛する男と共にその日の出来事を愉しく語り合いながら食べれば、どんなご馳走よりも美味しい。凜蓮は自分がもう、かつての贅沢な令嬢暮らしに戻りたいとさえ思わないことに改めて気付いていた。
 居室の前まで運び、声をかける。
「昼食をお持ちしました」
「入りなさい」
 父の声が聞こえ、凜蓮は覚悟を決めて室に脚を踏み入れた。父も母もまさか凜蓮が運んできたとは想像もしなかったらしい。
 二人共に顔を見合わせ、何ともいえない表情をしていた。
 二人が食事をしている間も、女中は部屋の隅に控えていなければならない。ご飯のお代わりなど所望があれば、こなさなければならないからだ。父が飯を食べ終え、おもむろに茶碗を差し出した。凜蓮はそれを受け取り、お櫃を開けた。途端に湯気が立ち上り、炊き上がったばかりのご飯の匂いが鼻腔をくすぐる。
 凜蓮自身、空腹なはずだから、本当なら良い匂いだと感じるはずなのに、このときは違った。匂いをかいだ拍子に猛烈な吐き気がせり上がってきて、凜蓮は慌てて口許を押さえた。
「申し訳―ございません」
 凜蓮はその場に蹲って、烈しく咳き込んだ。
「凜蓮や」
 母のソギョンが立ち上がった。
「どうしたというの、小さい頃から病気一つしたことのない子なのに」
「大監さま、奥さま、私に構わないで下さい」
凜蓮は首を振り、それでも去らない吐き気を堪えるのに精一杯だった。
「凜蓮、良いのよ。ここには大監さまと私しかいないわ。無理に私を奥さまと他人行儀に呼ぶ必要はありません」
 凜蓮はその場で少し吐いてしまった。女中としてはあるまじき失態だ。
「もしや」
 ソギョンは良人を意味ありげな眼で見た。
「あなた、この娘は身籠もっているのではありませんか?」
「祝言はいつだったか―」
 父が考え込むように眼を伏せた。