女ともだち
向上心
律子は、常に上昇志向を持っていた。
普通では終わりたくない、何か自分にしかできないことがあるはずだ、と。それがひょんなことから恋に落ち、結婚までしてしまった。しかし、結婚生活が始まると、それがとんでもない間違いだったことに気づいた。
平凡な主婦――律子が最も嫌う場所に自分が迷い込んでいたからだ。燃え上がっていた夫への愛情はあっけなく消え去り、さっさと離婚してしまった。そして、本来進むべき道に戻ったが、とんだ回り道をしてしまったことをとても悔やんだ。恋はしても結婚はしない、それを学べたと思うしかなかった。
そういう意味では、現在の彼に家庭があることは、むしろ好都合である。男側としても、当然異論などあるはずもない。結婚を望まない関係を希望する女というのは、男にとっては理想的だ。家庭を壊す気など毛頭ないのだから。こうして互いの利害が一致し、スムーズな関係が続いていた。
しかし、私生活の方は順調だったが、肝心の仕事の方は満足のいく状態ではなかった。律子は、女性向け事務用品の開発チームのサブリーダーとなったが、これといった成果もあげられず、チームをまとめていく能力にも光ったところを見いだせずにいた。こんなところで立ち止まっていてはいけない、焦る気持ちだけが先走った。
荘厳なホールには、外岡早苗が表紙のプログラムを手にした多くの人たちが行き来している。律子と百合子は、その人の多さに驚きながら席についた。
「すごいわね、満席じゃないかしら」
「そうね、こんな大きなホールだとは思わなかったわ」
「私もよ、もっとこじんまりとしたステージだと思ってた」
やがて、華やかなドレスに身を包んだ早苗が、盛大な拍手とともにステージ上に現れた。演奏が始まると、観客はみな、その優雅な音色に酔いしれた。
そして演奏会も終わり、ロビーに出たふたりは楽屋へと向かった。その廊下には幾つもの豪華な花が並べられ、会社名や個人名が記されている。楽屋前には、多くの人が列をなしていた。その驚くべき人気ぶりにふたりは顔を見合わせた。
「どうする?」
「今日のところは会うのは無理そうね」
ホールを出て、二人は近くのレストランに入った。旧友の晴れ姿を目の当たりにし、目の前の食事より、その華麗な姿と驚嘆すべき立場を魅せつけられた余韻に、二人とも浸りきっていた。
とりわけ律子の反応は異常なほどだった。究極の羨望ともいえる光景だったのだから無理もない。あれこそが誰にでもできるものではない、律子がかねてより手にしたかったものだ。
「なんか早苗が遠い人になってしまったような気がするわね」
百合子がポツリと言った。
「今度早苗のところを訪ねてみましょうよ。私たちのことを忘れているわけないのだから」
そう言う律子の目は獲物を狙う生き物のように研ぎ澄まされた光を放っていた。
後日早速、百合子のところに、律子から連絡が入った。早苗に訪問の約束を取り付けたというものだった。百合子はまた、化粧と洋服に最大限の気を遣い、出かけなければならなくなった。
二人は教えられた高層マンションの前にやってきた。エントランスに入るとホテルと見まがうようなロビーが目に入った。
「こんなところに同級生が住んでいるなんて信じられないわね」
辺りを見回しながら百合子が囁いた。コンシェルジュに訪問先を告げ、二人はエレベーターに乗り、二十五階のボタンを押した。
そしてその階に着き、ドアが開くと、広いエレベーターホールに出た。ところどころに季節の花や絵画が飾られた、磨きこまれた廊下を進み、「外岡」という重厚な表札が掲げられたドアのチャイムを鳴らした。
ドアを開けて姿を見せた早苗は、にっこり微笑んでふたりを中に招き入れた。その装いは清楚で気品があり、輸入高級家具が配置された広いリビングの主にふさわしいものだった。大きな窓からは眼下に東京の街並みが一望できる。
「突然押しかけてしまってごめんなさい、この前のコンサートでお話ができなくてとても残念で」
どこかの高級ブランドだろう、と思わせる洗練されたデザインのティーカップを口に運びながら律子が言った。
「わざわざコンサートに来ていただいたそうで、こちらこそご挨拶もできなくてごめんなさい。でも、今日こうしてお会いできてうれしいわ。本当に久しぶりで……」
「とりあえず、近況報告としては私、十年前に離婚してからずっと一人でがんばっているの。報告と言ってもこれくらいだけど」
そう言って百合子に視線でバトンタッチした。
「私は、ずっと専業主婦で中学生の娘と夫の三人暮らし。私もこれくらいしか報告することはないわ」
「早苗の話が一番ドラマチックよね、それが聞きたくて今日は来たんだから」
律子は、ここぞとばかり身を乗り出して、早苗の話を聞きたがった。
「私だってそんなに話すことなんてないわ。ずっとバイオリンを弾き続けてきただけ。変わったことと言えば、外国暮らしが長かったことくらいよ」
律子が聞きたいのはそんな謙遜ではない。早苗が今、どれほど華やかな生活をしているか、どんな苦労があったか、どうやってそれを乗り越え、勝ち組となった今はどんな気分か――そういうリアルな話を聞きたかった。しかし早苗は上手に話題を昔話へと持っていき、百合子と楽しそうな会話を続けた。
二時間ほど過ごして、早苗のマンションから出た二人の様子は対称的であった。
百合子は、昔の旧友と親交を温めた満足感に浸り、満ち足りた表情で、石畳を歩く足取りも軽かった。
一方、律子は、この訪問で得られたものの少なさに落胆していた。もっといろいろな物を吸収して、自分の今後の糧にできると思っていた。力づくで富と名声を手に入れた武勇伝を聞き、自分の励みとなるはずだった。これでは、ただ旧友の成功を指をくわえて見ているだけではないか。来なければよかった――
しかし律子の脳裏には、あの豪奢な部屋で、華麗に振る舞う早苗の姿がくっきりと焼き付いてしまった。