Fortunate one
わたしはうなずいて、カワセミと一緒に夜食を食べた。カワセミはワインを飲んでいて、少し顔がピンク色になっていた。
「大変だったわね」
「はい」
嘘はつけなかった。わたしにとっては、今までに仕事中に起きた中で、一番大変な事件だった。
「終わったの?」
「はい」
痣の話はできなかった。わたしは代わりに言った。
「十年前、わたしを可愛がってくれてたモズは、お母さんなんですか?」
カワセミはワインを飲む手を止めて、わたしの目をじっと見た。
「自分のお母さんを、モズなんて呼んじゃだめよ」
やっぱり、そうだったんだ。わたしは強がったことを少し後悔した。
「名前、知ってますか?」
わたしが言うと、カワセミは首を横に振った。
「ごめんなさい。それは知らないの。ルールだから」
「でも、わたしのお母さんなら、苗字は同じですよね?」
わたしが食い下がると、カワセミは疲れた顔で笑った。十年前にお母さんが見せた表情に、そっくりだった。
「そうとは限らないわ。あなたの名前は、苗字も下の名前もお母さんが決めたのよ」
わたしが黙っていると、カワセミは続けた。
「私、昔はモズだったの。お母さんは、私の大先輩。あなたを産んだときは、二十歳だった。一番の稼ぎ頭だったわ。私はすぐに中の仕事をするようになったけど、お母さんに料理を教えてもらったの。自分は出ずっぱりで作れないから、代わりにあなたに食べさせてあげてって」
わたしは、カワセミの作る料理が好きだ。お母さんが教えた味だから、いつも懐かしさを感じるのだろうか。お母さんが作る料理は、一度も食べたことがないはずなのに。
「私、モズだったころはカップラーメンしか作れなかったのよ」
わたしが思わず笑うと、カワセミも笑った。
「今日は眠れる?」
「はい、大丈夫です。ごちそうさまでした」
わたしはそう言って、部屋に戻った。仕事用のノートを引っ張り出して、新しいページを開いた。毎日写真を見ることはできない。でも、顔が見えないように絵にしておけば、人目を気にせずにいつも見ることができる。さっき見たばかりの写真を頭に呼び起こして、顔は書かずに、細い線で絵に起こした。
眠れなかったけど、朝になって、ツグミも同じように起きていたことが分かった。目の下にクマができていて、眠そうだった。
「寝てないよね」
わたしが言うと、ツグミはオレンジジュースを飲みながらうなずいた。
「うん。無理だよ。今日はめがねもかけたくないよ」
眼鏡をかけたくないというのは、仕事をしたくないという意味らしかった。
「でも、今日は大きいのがあるんだ。後でね」
ツグミは大きく伸びをすると、先に食堂から出て行った。わたしは午前中に男の死体を片付けて、仕事場を掃除した。昼からは何もなくて、その日の仕事は終わりだった。昼ごはんを食べるために階段の踊り場に上がったとき、そこでメジロが死んだことを思い出した。手すりにぶつかって、くるりとひっくり返って頭から落ちる。ドジなメジロなら、事故もありうるだろうか? いや、自分から手すりに突っ込んでいかないといけないし、しかも横向きに手すりを乗り越えるような勢いじゃないと無理だ。
仕事のあとのご飯どきにいつも来るツグミは、結局来なかった。わたしはタッパーを片付けて、ツグミの仕事場を覗いた。眠気でぼんやりとしている頭をフル回転させて片付けたらしく、ツグミは呆けたような表情でわたしに言った。
「いけなくてごめん。先に終わらせちゃった。やっと眠れる」
わたしは、ツグミが仕上げた資料をちらりと盗み見た。精密な線と、丁寧なメモ書き。逃走経路と、信号の位置。車幅ギリギリの路地。
「夜行性になっちゃうね」
わたしが言うと、ツグミは自分自身に呆れたように笑った。地図のそばには、車の鍵とシルバーの拳銃が置かれていた。弾が、何もない場所を囲うように六発立てられていて、それを見ていることに気づいたツグミは言った。
「それを使うんだって。触っちゃだめだよ」
手にとってみたいとわたしが思ったのを、どうして分かったんだろう。わたしは少し身を引いた。後ろ手に持っている紙を見たツグミは、言った。
「それはなに?」
「疲れてるみたいだから、今はいいよ」
「なになに、見せてよ」
わたしは、人の姿を消しゴムで綺麗に消した絵を見せた。
「どこかの町? このデパートの名前は聞いたことがあるわ。もしかして、クイズ?」
「時間があるときでいいから」
わたしが言うと、ツグミはすでに考え始めているようで、地図を手元に手繰り寄せた。でも、すぐに諦めたようにもう一度伸びをすると、『おやすみ』と言って眠ってしまった。
ロビーに降りると、モズのひとりがチェックアウトし、ヒバリとすれ違うところだった。優雅で無駄のない動きで、ヒバリはモズが着るスーツのポケットに、仕事用の携帯電話を滑り込ませた。
いつの間にか隣に立ったクジャクが、わたしに言った。
「昨日は大変だったわね。辛かった?」
「いえ、大丈夫です」
わたしの返事に満足したようで、クジャクはヒバリに目で合図を送った。ヒバリはエレベーターに乗り込むと、上の階へ上がっていった。ロビーにいる関係者は、わたし達だけになった。
「少し、いいですか?」
わたしが言うと、クジャクは大きな目を向けた。真っ白に透き通った白目と、茶色い瞳を見て、思った。わたし達と違って、昨日はぐっすり眠ったはずだと。
「メジロの体に、痣がありました。殺されたんだと思います」
「それは、確かなの?」
「はい」
クジャクは少し考え込むように目を細めたあと、小さくうなずいた。
「もしほんとなら、大変なことね」
信じてもらえただろうか。動こうとしないクジャクを置いて、わたしはツグミの仕事場に戻った。まだ眠っていたけど、机の上は綺麗に片付けられていて、あの拳銃と弾も片付けられていた。
数日が経ったけど、ツグミはまだ目の下のクマが取れないと言っていた。わたしは薄情なもので、すぐにぐっすり眠れるようになっていた。
「久々に、海まで歩かない? リズムが逆転しちゃって、夜が辛いんだ」
昼ごはんを食べているとき、ツグミが言った。わたしはうなずいた。
「いいよ」
前に歩いたのはいつだっただろうか。大きな岩の下を抜けて、海岸に出られる道。岩の下にいる間は暗くて怖いけど、暗闇に目が慣れてから見る夜の海は透き通っていて、月が出ていると淡いグレーに見える。
ヒバリは、またモズの部屋から中々帰ってこなかった。
ツグミは、綺麗に片付けられていたのが嘘のように乱雑に散らかった仕事場で、くつろいでいた。
クジャクは、『起こさないでください』と書かれたカードの中から、曲がったものを捨てていた。
カワセミは、いつも通りみんなの分、美味しい賄い料理を作った。
わたしは確信していた。ここで過ごすのは、今日が最後になると。
夜中になって、わたしはこっそり部屋から抜け出すと、ロッカーに立ち寄って、制服のポケットに封筒を入れた。封筒以外何も持っていないわたしが、どこまで行けるだろうか。試す価値はあると思った。
すぐに追われて殺されるとしても、自由な瞬間が欲しかった。
作品名:Fortunate one 作家名:オオサカタロウ