Fortunate one
モズが冷たく言うと、頭に穴の空いた死体を置いて出て行った。何日か前に『一緒に来てくれるなら、おれは引退する』と言われたわたしは、きっぱり断ったのを後悔していた。でも、結局わたしに関係なく引退したんだと思うと、断って正解だった。ヒバリにも、こうやって誘いをかけてくるモズがいるはずだし、部屋に上がったきり帰ってこないときは、その『彼』と一緒にいるんだと思っていた。わたしが同じことをやったら酷い目に遭うだろうけど、ヒバリは部屋を管理してるクジャクのお気に入りなのだ。
このホテルの色んな場所にある、色んな思い出。通ると、パッと明るくランプが点くみたいに、色んなことが蘇ってくる。地下の仕事場に戻ったわたしは、硬直が解けた死体の足の付け根を、両方ともナイフでバッサリ切った。バケツの中に黒く変色した血がだらだらと落ちてきて、待っていると永遠にかかりそうだったから、腋の下を両方ともナイフで突いて、空気が入るように強く揺さぶった。
台に載せられるぐらいに軽くなったところで時計を見ると、もう夕方になっていた。階段の踊り場でツグミと晩御飯を食べて、彼女の仕事を少し見学した。
『この信号は、人が制御してる。人がいなくなるまでは赤のままなの。だから当てにしちゃいけないんだ』
機械のように淡々と言いながら、大きな眼鏡をかけたツグミは、大通りにバツ印をつけた。道路と仲良しの彼女には、とっておきの地図がある。一度だけ見せてもらったことがあって、それは彼女が偶然見つけた『お気に入りの場所』だった。四方に海が見える、展望台のような場所。『晴れてたら、すごい景色だよ』と、何年か前にツグミは言った。そんなときでも『晴れてたら』と条件をつけるところが、彼女らしいなと思った。
仕事場に戻ったわたしは、体重が半分ぐらいになった死体を台の上に動かして、ウィンチから外した。チップソーの刃を撫でたとき、すぐ近くで車がぶつかったみたいな音が鳴った。焦ったモズが車を柱にぶつけたときのことを思い出して、笑いそうになった。その柱は今でも歪んだままだ。わたしは手袋とエプロンを脱いで、くくった髪を下ろした。音が聞こえたのは、階段室の方向。
ドアを開けると、目の前に、人がうつ伏せに倒れて死んでいた。
メジロだった。頭から血を流していて、すぐ上の階から落ちたのだと分かった。
全員が、厨房に集められた。『仕事中』のわたしから律儀に距離を置いているヒバリと、カワセミが何かを言うのを待っているクジャク、寒そうに肩をすくめているツグミ。わたしは、自分が見たことをそのまま伝えた。カワセミはしばらく黙っていた。リーダー役というわけではないけど、何かあったときに沈黙を破るのは、いつも彼女の役目だった。でも、今回は少し違うみたいで、カワセミは自分に向けられた視線を息苦しく思っているみたいだった。
クジャクは、厨房で禁止されているはずの煙草をふかしていた。誰かが何か言うのを待っているんじゃなくて、誰も何も言えないということを確認しているみたいだった。煙を飲み込むと、みんなが羨む大きな二重まぶたの目をパチパチとさせて、わたしの方を向いた。
「あれこれ考えても、しょうがないわ。バラして」
カワセミも同じことを思っているみたいだった。ただ、わたしに言いたくないだけだったのかもしれない。
「はい」
わたしはうなずいて、その場から立ち去った。みんなはまだ何かを話していたようだったけど、急がなければならなかった。階段室まで戻ったとき、後ろから追いかけてきたツグミが言った。
「一緒に運ぼう」
台から男の死体をどけて、わたし達は台を綺麗に拭いた。その上にふたりでメジロの死体を乗せて、ツグミが余ったエプロンを巻こうとしたのを、わたしは止めた。
「ここから先は、わたしがやるから。ありがとう」
ツグミは少しためらっているみたいだったけど、部屋に戻っていった。わたしはメジロの持ち物を、いつもやるみたいにひとつずつ脇へどけていったけど、彼女が持っていたのは、制服とメモ帳の切れ端だけだった。いつもなら数十分かかる作業が、すぐに終わってしまった。そのとき思った。わたしも、死んだらこうなるんだと。死んだ人間から奪った指輪と、何も疑わずに着てきた制服。たったそれだけだ。モズが殺した人たちはみんな、財布や、家族の写真や、指輪や、車の鍵を持っていた。でも、わたし達には、何もない。気づくと、わたしはメジロの体にすがるみたいに泣いていた。嬉しそうにしていたけど、ヒバリみたいにメモを滑り込ませられたとして、それが何になるんだろう。
わたしはメジロの亡骸から離れて、休憩用のパイプ椅子に腰掛けた。すぐにやらなきゃならない。でも、時間がかかりそうだ。そう思ったとき、わき腹の辺りに痣があることに気づいた。わたしはメジロの足先から痣の位置までを測った。悪い予感が、全身を芯まで冷やした。部屋から飛び出して、階段室の手すりの高さを測る。同じだった。すぐに分かった。彼女は突き飛ばされて、手すりにぶつかってから落ちた。
事故じゃない。メジロは殺された。
結局、時間には勝てなかった。誰にも言えないまま、わたしはメジロを解体した。夜中の二時になっていて、わたしは眠気でふらふらになっていた。途中までとりかかっていた男の死体を台へ戻すと、エプロンを脱いでお風呂に浸かった。
ロッカーに制服をしまいこんだとき、隣にあるメジロのロッカーを見て、しばらく考えこんだ。可愛くて、おっちょこちょいなメジロ。みんなの後をついていっては、可愛がられていた。どうして、彼女が殺されなければならないのだろう。
わたしは自分のロッカーを開けた。仲間のひとりを解体したのは初めてだった。そして、制服が馬鹿らしく思えたのも。今がそのときなのだろうか。自分でも確信が持てないまま、わたしは封筒を取り出した。十年前の記憶。封筒には頼らずに、女の人との約束を守ってきた。
「いいのかな……」
わたしは宙につぶやいて、しばらく待った。誰もいない更衣室。もう一度周囲を確認すると、わたしは思い切って封筒を開けた。中には写真と、銀行の名前が書かれたプラスチックのカードが入っていた。
写真は、手に赤ちゃんを抱いて、微笑んでいる女の人。裏には綺麗な『川井ひな 1998.5.11』の文字。わたしは思わずベンチに腰掛けた。
お母さん?
ずっと生きている記憶。わたしはその写真をもう一度見つめた。間違いない。記憶より若いけど、あの女の人だ。この赤ちゃんがわたしなんだろうか。驚いたのは、それが外の世界で撮られた写真だったということだった。背景にはデパートがあって、S字にくねる高速道路が見えている。わたしは封筒に写真とカードを戻して、ロッカーを閉めた。心臓の鼓動が痛くて、思わず胸を押さえた。
部屋に戻る途中、厨房の電気がまだ点いていることに気づいたわたしは、恐る恐る中を覗きこんだ。カワセミがいて、目が合った。
「こんな時間までかかったの。おいで」
わたしは呼ばれるままに厨房へと入った。カワセミは可愛いお皿に並べたチーズとハムのカナッペを差し出した。
「私も眠れないの。食べる?」
作品名:Fortunate one 作家名:オオサカタロウ