松木一尉の忘れえぬ日
だが、間をおかずに模擬目標がいくつも現れ、隊員が同じように数字を読み上げた。
淡々と作業を続ける隊員たちの姿を高原はじっと監査し、その一歩後ろに立つ松木一尉も同じように訓練を見守っているが、その視界の端には常に高原の横顔が映っている。
訓練の終わりが告げられれば、室内に満ちていた緊張感がふっと和む。
数日に亘った訓練検閲もこれで無事終了だ。
横を見れば、高原もほっとした顔をしている。
「無事に終了ですね」
「ああ」
高原は口の端を少し上げて笑みを見せる。そのはにかんだように見える顔は、自分よりも年上とはとても思えない独特の清々しさで、松木一尉の庇護心を一気に高めた。
「戻ろう」
「はい」
前を歩く高原の姿を見ていれば、意識下に追いやっていた今朝の言葉が思い出される。どんな意味で言ったのか、聞いてみたい衝動が不意に募った。期待する自分と、諌める自分が、松木一尉を困らせる。
「あの・・・・・・」
「なにか、松木一尉?」
当たり前だが、振り返った高原に今朝の微妙な雰囲気は微塵もない。
「どうした?」
言いよどむ松木一尉へ、高原が首をかしげる。
「あの、今朝おっしゃった言葉の意味をお聞きしても構いませんか?」
覚悟を決めて言い切れば、わずかな間をおいて高原の顔が赤くなる。それに、松木一尉の期待も自然と高くなった。
「・・・・・・あれに、深い意味はない」
困ったように視線を逸らす仕種が初心な少年のようで、松木一尉の方が困ってしまう。
そんな仕種をされては、嫌でも自分に都合のいい解釈しかできないではないか。恋する男の妄想力を侮ってはいけない。脳内はすでに桃色バラ色乙女色の妄想ワールドが、完全に出来上がっている。
「ですが・・・・・・」
言い募るにも言葉が続かない。このまま告白してしまいたいが、松木一尉の考える告白のシチュエーションに、この鉛色も国防色も不必要だ。
夜景だとか、甘い雰囲気だとか、そんな高望みはしないまでも、せめてもう少し職務から離れた雰囲気で告白したいのだ。
ふたりの記念すべき瞬間である。
せめて、盛り上がった雰囲気のままキスまでいける環境が望ましい。
できればそれ以上のことも・・・・・・。
だが、こんなチャンスは二度とないかも知れないという危機感もある。
松木一尉は謹厳実直な副官の顔の下で、本人には至極大切だが、他人にはどうでもいいことを必至になって考えていた。
「今夜は・・・・・・どこへも行くな」
「ぇっ・・・・・・?」
あまりの言葉に、松木一尉は返事すらろくにできなかった。
『コンヤハドコヘモイクナ』
『こんやは、どこへもいくな』
『今夜は、どこへも行くな・・・・・・?』
エコーが掛かったように、頭が同じ言葉を繰り返し響かせる。
許容量を凌駕する信じられない言葉に、松木一尉のすべてがフリーズし、再び活動を始めるまでには数十秒の時間を要した。
その言葉を頭がもう一度繰り返し、ちゃんと把握した瞬間、また松木一尉の思考がフリーズしかかるが、今度は溢れ出す幸福のアドレナリンがそれを押し返した。
「はい」
きちんと敬礼しながらも、頭の中はこの後のことでイッパイ、イッパイになっている。
「早く戻ろう」
小さく言うと、高原はくるりと向きを変えて歩き出した。先を歩くその姿にすら、松木一尉の胸が期待に小躍りする。
いや、小躍りを通り越して、裸踊り状態だ。
(そういうことで、いいのか?)
(本当に?)
すでに松木一尉の中では乙女チックな前段階をすっ飛ばし、よりディープな大人の夜の世界が広がり始めていた。
(鍵は付いていたな)
(防音はどうだっただろうか?)
几帳面な松木一尉は、すでに夜間戦闘シミュレーションを脳内で繰り広げていた。
部屋に戻ると、高原はすぐに机に向かった。
今しがた終わった訓練の概要を纏めているのだ。松木一尉もそれに倣って仕事を済ませる。
自衛官たるもの、職務よりプライベートを優先させてはいけない。きちんと職務を終え、プライベートは心置きなく楽しむべきだ。
松木一尉は逸る心をそうやって言い聞かせ、チラリと高原の姿を盗み見る。
健康な成人男子として発達を遂げた男の正常な機能が、期待にピクリと疼く。
(いかん――まだ辛抱だ)
(焦るな、俺)
こんなときに限って、高原の襟足がやけに目に付く。
ほっそりと見える首に、きれいに切り揃えた黒髪が映える。つと、そこに触れたい衝動が高まる。それを我慢して目をずらせば、今度は目に入った肩を抱きたい衝動が湧き上がった。上へずらせば、短い黒髪に手を入れて思う存分掻き乱したくなる。
高原を見なければいいのだろうが、そんなことすら冷静に判断できない。じっと見つめる松木一尉の視線には自然と熱が籠り、当然、高原もそれを察した。
「松木一尉?」
高原がくるりと振り向いたことで、松木一尉はかなり狼狽した。表情だけはいたって冷静さを取り繕うが、視線に籠った熱は如何ともしがたい。
高原は怪訝そうに目を眇める。
「我慢、できないのか?」
「――もう、限界です」
ここまできて隠すことはないと、松木一尉は素直な心情を吐いた。
ふっと小さなため息が高原から零れる。仕方ないという顔が、妙に艶めいて見えた。
「そんなに、したかったのか?」
「はい。ですが、高原三佐のお気持ちを最優先に考えております」
またひとつ、高原がため息を吐く。
「わたしには、無理だ・・・・・・」
「その心情は十分承知しているつもりです。やはり、男の矜持に関わることですから」
高原の困惑は最初から想定済みだった。
男が男を受け入れるということは、精神的にも肉体的にも衝撃的なことだ。そのへんのリサーチとて、松木一尉は怠っていない。
最初の戸惑いと恐れを払拭するためには、そのへんを理解しつつも、それを上回るほどの愛を訴えなくてはいけない。
「男の矜持・・・・・・そう、かも知れない」
「最初は混乱もあるでしょうが、それはふたりで乗り越えればいいのです」
「ふたりで?」
「はい!」
松木一尉はにっこりと、何の不安もないんだと言う笑みを見せた。
「大丈夫です。わたしに任せてください」
視線をさまよわせる高原は、まだ逡巡している。もう一押しだと感じた松木一尉は、すっと高原の手を取った。
瞬間、ピクリと高原の身体が強張る。
「高原三佐・・・・・・」
目にありったけの感情を籠めて見つめる。
「松木一尉・・・・・・」
吐息にも似たかすかな声が松木一尉の名を呼ぶ。その目が潤んでいる様にも見えた。
「恥ずかしい・・・・・・わたしには、無理だ」
松木一尉の視線から目を逸らし、俯く高原の顔が赤くなっている。
「恥ずかしいことなんてありません」
高原の気持ちを最優先するどころか、松木一尉は必至になって説得していた。この機を逃してはならないという恋する男の勘が、松木一尉を普段以上に饒舌に、積極的にしている。
「だって、あんなこと・・・・・・」
反論しながら何を想像したのか、一段と顔を赤くした高原に、松木一尉の方も想像が膨らむ。
(あんなって・・・・・・高原三佐。あなたは、どんなスゴイことを考えてるんです?)
作品名:松木一尉の忘れえぬ日 作家名:綾瀬 巽