松木一尉の忘れえぬ日
訓練検閲に入れば、理性との戦いだ。
狭い士官個室はもとより、朝から晩まで四六時中行動を共にするのだから、普段は見ることのできない素の部分を垣間見ることができる。
それにはこの上もなく幸せを感じるが、無自覚な仕種で煽られる欲望をいかに抑えるかとの戦いでもある。
今も、あの人は下の寝台で眠っている。
安らかな吐息がかすかに聞こえ、こんな幸せでいいのかとすら思ってしまう。
「いや、だ・・・・・・」
(いやだ・・・・・・?)
聞こえてきた声に、松木一尉は心の中で復唱した。
「・・・・・・松木、いち・・・・・・はずか、し・・・・・・」
意味深な寝言に、松木一尉の心拍は一気にマックスまで跳ね上がった。
それも当然だ、松木一尉の中では、すでにあるシチュエーションが出来上がっている。
「無理・・・・・・だ・・・・・・」
「っ・・・・・・」
ごくっと、松木一尉の喉が鳴る。
繰り広げられる脳内妄想は、ひたすら自分にとって都合のいいものとなっていく。
そっと下を覗き込めば、困ったように眉を寄せる高原の顔が、窓から入るわずかな月明かりに浮かび上がって見えた。
困り顔も、脳内妄想が暴走している松木一尉には違った意味にしか取れない。
「高原三佐・・・・・・」
吐息にも似た呟きでその名を呼べば、わずかに唇が綻んだ。薄く開いた唇がまるで口付けを誘っているように見えるのは、妄想に拍車が掛かっている松木一尉だけだろう。
欲望と理性とが鬩ぎ合う。
妄想は限りなく二十歳未満お断り的な内容なのに、現実では告白すらできない純情派なのだ。だから、当の本人に嫌われるよう行為に及ぶ度胸もない。
でも、健康な成人男子である。
下半身はその身を起こして訴える。
充実しつつある下半身の訴えを無理やり無視し、どうにか脳内妄想だけにとどめた。このまま理性に従えば、一時の快感は得られても、これまで築き上げてきた信頼を失くしてしまう。
海軍五省をお経のように唱え続ければ、少しは冷静さが戻ってくる。
生殺しのような状態を耐え抜いた精神力は、さすがに海軍時代から連綿と続く厳しい訓練の賜物といえよう。
松木一尉の朝は早い。
それは訓練検閲で護衛艦に乗り込んでいても変わらない。
密かに持ち込んだ隠し撮り写真へ唇を寄せると、次いで、眠る本人を見て顔を緩める。
運動不足を解消するため、松木一尉は早朝から甲板マラソンで汗を流す。
昨夜の煩悩を鎮めようと、いつも以上に走り込み、汗と一緒に疚しさも流してしまう。
だが、士官個室へ戻ったとき、丁度、高原が身支度をしていた。
「あっ・・・・・・」
なぜか視線を逸らす高原の目元が、うっすらと赤く染まっている。
「失礼しました」
咄嗟に扉を閉め、松木一尉はドキドキと高鳴る胸を手で押さえた。いまさら、生着替えなど初めてではない。訓練検閲ではいつも同室で過ごしてきた。
そのはずなのに、何で今日に限ってこんなに意識してしまうのだ。
自分の今の反応もそうだが、これまで平然としていたはずの高原だって、何で突然恥じらうのか理由がわからない。
いや、脳内では都合のいい解釈をしたがっているのだ。
しばらく待ってから、松木一尉は静かにドアを叩いた。
「すまなかった、松木一尉」
すぐに切り出した高原は、やはりどこか恥ずかしそうにしている。
「いえ、私こそ配慮が足らず、申し訳ありませんでした」
深く下げた頭の中では、もしや高原も自分のことを・・・・・・などと都合のいい解釈がまた始まっている。
いや、そんなことは・・・・・・。
でも、もしや・・・・・・。
「松木一尉?」
実直そうな顔の下でそんな煩悶を繰り返しているとは知らず、高原が声を掛ける。
「はっ。何でしょうか?」
脳内妄想は瞬時に任務の二字に切り替わる。
「いい難いのだが・・・・・・」
「何でもおっしゃってください」
つと逸れた視線が、やはり恥ずかしそうに見えるのは気のせいか。
「いや、いいんだ」
言い出せず、高原はそのまま部屋を出て行こうとした。だが、このまま何も言わずにはいられなかったのか、高原は言い難そうに小さく付け加えた。
「わたし以外の前で、肌を晒すな」
表情は見えなかったが、耳が真っ赤に染まっていた。
返事もできないまま、松木一尉はゆうに五分くらいはフリーズしていただろうか。
脳内は今聞いた言葉を何度も何度も繰り返している。
どう解釈していいのかわからない。
着替えにも許可が要るのだろうか・・・・・・と、考えてぶんぶんと首を振る。
それなら・・・・・・と、考え付いたのは、やはり自分に都合のいいものだった。
まさか、嫉妬?
ぶんぶんとまたも首を振って否定するが、それ以外にありえないよな? と、肯定する自分もいる。
もしや、これは長年の想いを告白する、一世一代のビッグチャンスなのではないか。
一気に高鳴りだした鼓動が、松木一尉の胸を甘く締め付ける。桃色に染め上がった脳内妄想はこれ以上ないほど都合のいいもので、今時の中学生でも考えないほどの乙女ぶりを発揮していた。
そっと触れるだけだった指先。
自分だけに向けられる笑顔。
啓介と下の名で呼ばれるところを想像すれば、精悍な松木一尉の顔も一気に恋する男のものになる。
「尚」
知らず、口からは高原の名が零れた。
恐れ多いことではあるが、成人男子の緊迫した事情の時には何度か呼ばせてもらったことがある。
その連鎖反応で、下腹部に熱が集まっていく。
どれほど乙女チックな妄想をしていても、身体はれっきとした大人のものだ。男の切迫した事情は桃色の妄想ではなく、白い飛沫を吐き出したいと望んでいる。
何事も時間に追われて早く済ますように鍛え上げられた身体は、緊急事態であろうがきっちり一分で処理を終える。
そのためのイメージトレーニングは万全だ。
晴れ晴れとした精錬実直な副官の顔を取り戻して、松木一尉は士官個室を後にした。
その日、夜間の対空戦闘訓練が行われた。
艦船内では灯火管制がしかれ、フードのかかった赤色灯に切り替わっている。戦闘情報中枢(CIC)ではコンピューターを訓練モードにし、模擬目標をスクリーンに出した。
イージスシステムの中核であるフェーズド・アレイ・レーダーが作動を始めれば、このCICへの出入りも制限される。
教育訓練指導隊(FTG)である松木一尉は、上官である高原と共にその中に入った。
この緊張感は独特のものがある。
適度に張り詰めた雰囲気が心地いい。
「教練、対空戦闘訓練開始」
対空目標捜索に付いた隊員がすぐに反応し、高度や進行方向、艦までの距離を報告する。追尾担当の隊員がすぐさま目標識別を行い、味方に所属する飛行機でないことを告げた。
砲電長が対空戦闘を下令すれば、追尾担当がデータを読む。
ミサイル射撃担当の幹部がそれにあわせて準備をした。
射撃可能なのを確認した追尾担当が声を上げれば、砲電長が間髪をいれずに発射の指示を出す。
発射されたミサイルは目標に向かって飛翔し、スクリーンの上でミサイルの光点と目標の光点が交わる。
「目標殲滅」
砲電長の声がしんとしたCIC内に響く。
狭い士官個室はもとより、朝から晩まで四六時中行動を共にするのだから、普段は見ることのできない素の部分を垣間見ることができる。
それにはこの上もなく幸せを感じるが、無自覚な仕種で煽られる欲望をいかに抑えるかとの戦いでもある。
今も、あの人は下の寝台で眠っている。
安らかな吐息がかすかに聞こえ、こんな幸せでいいのかとすら思ってしまう。
「いや、だ・・・・・・」
(いやだ・・・・・・?)
聞こえてきた声に、松木一尉は心の中で復唱した。
「・・・・・・松木、いち・・・・・・はずか、し・・・・・・」
意味深な寝言に、松木一尉の心拍は一気にマックスまで跳ね上がった。
それも当然だ、松木一尉の中では、すでにあるシチュエーションが出来上がっている。
「無理・・・・・・だ・・・・・・」
「っ・・・・・・」
ごくっと、松木一尉の喉が鳴る。
繰り広げられる脳内妄想は、ひたすら自分にとって都合のいいものとなっていく。
そっと下を覗き込めば、困ったように眉を寄せる高原の顔が、窓から入るわずかな月明かりに浮かび上がって見えた。
困り顔も、脳内妄想が暴走している松木一尉には違った意味にしか取れない。
「高原三佐・・・・・・」
吐息にも似た呟きでその名を呼べば、わずかに唇が綻んだ。薄く開いた唇がまるで口付けを誘っているように見えるのは、妄想に拍車が掛かっている松木一尉だけだろう。
欲望と理性とが鬩ぎ合う。
妄想は限りなく二十歳未満お断り的な内容なのに、現実では告白すらできない純情派なのだ。だから、当の本人に嫌われるよう行為に及ぶ度胸もない。
でも、健康な成人男子である。
下半身はその身を起こして訴える。
充実しつつある下半身の訴えを無理やり無視し、どうにか脳内妄想だけにとどめた。このまま理性に従えば、一時の快感は得られても、これまで築き上げてきた信頼を失くしてしまう。
海軍五省をお経のように唱え続ければ、少しは冷静さが戻ってくる。
生殺しのような状態を耐え抜いた精神力は、さすがに海軍時代から連綿と続く厳しい訓練の賜物といえよう。
松木一尉の朝は早い。
それは訓練検閲で護衛艦に乗り込んでいても変わらない。
密かに持ち込んだ隠し撮り写真へ唇を寄せると、次いで、眠る本人を見て顔を緩める。
運動不足を解消するため、松木一尉は早朝から甲板マラソンで汗を流す。
昨夜の煩悩を鎮めようと、いつも以上に走り込み、汗と一緒に疚しさも流してしまう。
だが、士官個室へ戻ったとき、丁度、高原が身支度をしていた。
「あっ・・・・・・」
なぜか視線を逸らす高原の目元が、うっすらと赤く染まっている。
「失礼しました」
咄嗟に扉を閉め、松木一尉はドキドキと高鳴る胸を手で押さえた。いまさら、生着替えなど初めてではない。訓練検閲ではいつも同室で過ごしてきた。
そのはずなのに、何で今日に限ってこんなに意識してしまうのだ。
自分の今の反応もそうだが、これまで平然としていたはずの高原だって、何で突然恥じらうのか理由がわからない。
いや、脳内では都合のいい解釈をしたがっているのだ。
しばらく待ってから、松木一尉は静かにドアを叩いた。
「すまなかった、松木一尉」
すぐに切り出した高原は、やはりどこか恥ずかしそうにしている。
「いえ、私こそ配慮が足らず、申し訳ありませんでした」
深く下げた頭の中では、もしや高原も自分のことを・・・・・・などと都合のいい解釈がまた始まっている。
いや、そんなことは・・・・・・。
でも、もしや・・・・・・。
「松木一尉?」
実直そうな顔の下でそんな煩悶を繰り返しているとは知らず、高原が声を掛ける。
「はっ。何でしょうか?」
脳内妄想は瞬時に任務の二字に切り替わる。
「いい難いのだが・・・・・・」
「何でもおっしゃってください」
つと逸れた視線が、やはり恥ずかしそうに見えるのは気のせいか。
「いや、いいんだ」
言い出せず、高原はそのまま部屋を出て行こうとした。だが、このまま何も言わずにはいられなかったのか、高原は言い難そうに小さく付け加えた。
「わたし以外の前で、肌を晒すな」
表情は見えなかったが、耳が真っ赤に染まっていた。
返事もできないまま、松木一尉はゆうに五分くらいはフリーズしていただろうか。
脳内は今聞いた言葉を何度も何度も繰り返している。
どう解釈していいのかわからない。
着替えにも許可が要るのだろうか・・・・・・と、考えてぶんぶんと首を振る。
それなら・・・・・・と、考え付いたのは、やはり自分に都合のいいものだった。
まさか、嫉妬?
ぶんぶんとまたも首を振って否定するが、それ以外にありえないよな? と、肯定する自分もいる。
もしや、これは長年の想いを告白する、一世一代のビッグチャンスなのではないか。
一気に高鳴りだした鼓動が、松木一尉の胸を甘く締め付ける。桃色に染め上がった脳内妄想はこれ以上ないほど都合のいいもので、今時の中学生でも考えないほどの乙女ぶりを発揮していた。
そっと触れるだけだった指先。
自分だけに向けられる笑顔。
啓介と下の名で呼ばれるところを想像すれば、精悍な松木一尉の顔も一気に恋する男のものになる。
「尚」
知らず、口からは高原の名が零れた。
恐れ多いことではあるが、成人男子の緊迫した事情の時には何度か呼ばせてもらったことがある。
その連鎖反応で、下腹部に熱が集まっていく。
どれほど乙女チックな妄想をしていても、身体はれっきとした大人のものだ。男の切迫した事情は桃色の妄想ではなく、白い飛沫を吐き出したいと望んでいる。
何事も時間に追われて早く済ますように鍛え上げられた身体は、緊急事態であろうがきっちり一分で処理を終える。
そのためのイメージトレーニングは万全だ。
晴れ晴れとした精錬実直な副官の顔を取り戻して、松木一尉は士官個室を後にした。
その日、夜間の対空戦闘訓練が行われた。
艦船内では灯火管制がしかれ、フードのかかった赤色灯に切り替わっている。戦闘情報中枢(CIC)ではコンピューターを訓練モードにし、模擬目標をスクリーンに出した。
イージスシステムの中核であるフェーズド・アレイ・レーダーが作動を始めれば、このCICへの出入りも制限される。
教育訓練指導隊(FTG)である松木一尉は、上官である高原と共にその中に入った。
この緊張感は独特のものがある。
適度に張り詰めた雰囲気が心地いい。
「教練、対空戦闘訓練開始」
対空目標捜索に付いた隊員がすぐに反応し、高度や進行方向、艦までの距離を報告する。追尾担当の隊員がすぐさま目標識別を行い、味方に所属する飛行機でないことを告げた。
砲電長が対空戦闘を下令すれば、追尾担当がデータを読む。
ミサイル射撃担当の幹部がそれにあわせて準備をした。
射撃可能なのを確認した追尾担当が声を上げれば、砲電長が間髪をいれずに発射の指示を出す。
発射されたミサイルは目標に向かって飛翔し、スクリーンの上でミサイルの光点と目標の光点が交わる。
「目標殲滅」
砲電長の声がしんとしたCIC内に響く。
作品名:松木一尉の忘れえぬ日 作家名:綾瀬 巽