松木一尉の忘れえぬ日
「松木一尉は好きなのかも知れないが・・・・・・わたしは初めてなんだ。心の準備ってものもあるし・・・・・・い、いや、そもそもやるつもりはないんだ・・・・・・ただ、松木一尉がどうしてもというのなら・・・・・・」
「高原三佐が初めてなのは承知しています。反対に、経験があると言われたほうが驚きます」
当たり前だという目で睨みつける高原へ、松木一尉は今までに見せたこともない最高に幸せな笑みを見せた。
「笑うな!」
「すみません」
照れてぴしゃりと怒るところも、普段は見せない可愛らしさを感じた。
「そんなにしたいなら、許可しないでもない」
どこか意地になって、高原は言い切る。
「本当ですか?」
「ただし、松木一尉ひとりでやれ」
「ひとりで?」
裏返りそうになる声で聞き返すと、高原は黙って頷く。
(ひとりってことは、アレだよな?)
(視姦プレイ? 羞恥プレイ?)
「あまり羽目を外すな」
(は、羽目を外すって・・・・・・どんなひとりプレイですか?)
松木一尉は、ごくっと喉を鳴らした。
口の中はカラカラに乾ききり、飲み込むほどの唾液もない。
覚悟を決め、ベルトに手をかける。
カチャリとバックルを外す音がヤケに大きく聞こえたのは、松木一尉も緊張しているせいだろう。いくら愛しい人の前でも、その人の望みでも、単独作戦を披露するのはなかなか勇気のいることだ。
「準備はいいのか、松木一尉?」
平静に戻った高原が、不思議そうに聞いてくる。
「準備といっても、別段ありませんが?」
松木一尉のほうも不思議そうに返した。
「そうなのか? 化粧道具とか使うのかと思っていたが・・・・・・」
「はぁ・・・・・・?」
つい、我を忘れて声が裏返った。
(高原三佐――けっ、化粧道具なんて、そんな倒錯プレイを・・・・・・)
高原に持っていた清純で凛としたイメージがガラガラと崩壊するのを感じたが、興味津々と言った様子には単純な愛しさが募る。
(この人がやれって言ったら、なんだってできる・・・・・・かも)
へんな被虐心が、松木一尉に未知の世界を覗かせる。
「口紅とかを使って口を描くんじゃないのか?」
「いえ、口紅を使う趣味は・・・・・・って、えっ?」
話が微妙にかみ合っていない。
じっと高原を見つめれば、そこには大人の隠微な雰囲気など欠片もなく、初めてサーカスを見る子供のような、期待に爛々と輝く目がある。
(もしかして・・・・・・)
(か・・・・・・勘、違い?)
さあっと血の気が引いていく音が松木一尉にはハッキリと聞こえた。
「あの・・・・・・高原三佐?」
「なんだ、松木一尉?」
爽やか過ぎる高原の顔には、夜の雰囲気どころか欲の欠片すらない。
「高原三佐・・・・・・これから、わたしが何をするとお思いですか?」
恐々と尋ねる声は、いつもの松木一尉らしくない気弱なものだった。
「何って、裸踊りだろう? 違うのか?」
松木一尉はその言葉を聞いた瞬間、頭が空白になるのを感じた。事実、数秒間か数十秒間か、立ったまま確実に気を失っていた。
「松木一尉?」
我を取り戻したときには、間近に迫った高原の顔が心配そうに覗き込んでいた。
「た、高原三佐・・・・・・」
慌てて身を引こうとして、松木一尉は寝台に尻餅をつく。
「いいのか? 訓練検閲が終わったって、みな食堂で騒いでるぞ」
真剣な顔で言われれば、頭が痛くなる。
「わたしが裸踊りをしたがってるなんて、どうしてそんなことを?」
はあっと大きくため息をつくと、松木一尉は一段砕けた言葉で聞いた。
「先任伍長に聞いた。酒が入ると披露するとも言っていたが、違うのか?」
首を傾げて覗き込む姿はとても愛らしいが、今はそんなことに現を抜かしている場合ではない。
あらぬ疑いを掛けられたままでは、松木一尉の矜持が許さない。と言うか、勘違いした恥ずかしさがこの原因を余さず究明したがっている。
「それはまったくの誤解です。第一に、その先任伍長とは面識がありません。第二に、今まで裸踊りを披露した事実もありません」
キッパリと言い切れば、高原が困ったような顔になる。
「わたしの誤解だった、か・・・・・・」
「はい。わたしにそのような特殊な趣味はありません」
「そうか・・・・・・・・・・・・ん? だったら、さっきのは何だったんだ?」
思い出して欲しくないことを高原が突っ込む。
一度は優位に立っていた松木一尉も、今度は言葉を詰まらせた。
「それは・・・・・・艦船七不思議です」
「艦船七不思議? 幽霊だとか、呪いだとか、そういうヤツか?」
「はい」
ここまできたら、何でもいいから誤魔かすしかない。幸い、艦船七不思議というのは昨日仕入れた笑い話だ。
まるで信じていないにも拘らず、松木一尉は至極真面目な顔をして、この艦船で噂される七つの不思議をひとつ一つ披露した。
「では、松木一尉はそれを確かめに行きたかったのか?」
いささか不本意ではあったが、松木一尉は大きく頷いて見せた。
まさか、上官相手に大人の夜間訓練を予定していたとは、口が裂けても言えない。
松木一尉の咄嗟の戯言を、当然ながら高原はすんなりと信じ込んだ。
もとからそっち方面に疎いとは言え、副官の邪な気配を察しもしない鈍感さをこの場合は歓ぶべきなのだろうか、敗北の二字が脳裏を過ぎる。
恋する男の心は複雑だ。
「松木一尉も、意外とかわいいところがあるのだな」
くすりと笑みを見せる高原の方こそ、かわいいのだ。とは、松木一尉も言えない。
「オカルト好きとは知らなかった。まさか、いつも夜の甲板で会うのはそのせいか?」
「え? ええ、まあ・・・・・・」
言葉を濁す松木一尉の心を知らず、高原はにこりと鷹揚に笑みを見せた。
(いいのか、これで?)
邪な行為に及ぼうとした件は発覚を免れたが、果たしてこれで本当によかったのだろうかと、松木一尉は胸のうちで疑問符をうった。
このままなし崩し的に告白するという選択もあったはずだが、やはり、一世一代の瞬間は最高のシチュエーションが望ましい。
松木一尉はこっそりとため息を吐きながら、いつ訪れるのかわからないその日に思いを馳せて遠い目をした。
今日のところはこれでいいのだ。
いつか、最高のシチュエーションで告白して見せようじゃないか。
そっと胸の内で誓いを立てた。
後日、松木一尉に夢の中で裸踊りを強要されそうになったと、高原は笑って教えてくれた。
了
作品名:松木一尉の忘れえぬ日 作家名:綾瀬 巽