晴天の傘 雨天の日傘
二 あまやどり
途中下車したことには電車の乗り換えだけが理由ではない。背伸びを始めた生意気盛りの高校生の頃、青春を謳歌した大学生の頃、そして社会に出て独り立ちした現在――。快晴はこの町に何度も繰り出し、この町に育てられた。だからこの町のどこに何があるか、何が美味しいのか、何が楽しいのかを把握している。
この町のメインストリートの一つ奥。古い雑居ビルの三階に一風変わった喫茶店がある。窓に書かれた店名は
「あまやどり」
快晴は通りの下からその窓を見上げた。
雨男にとってのこの店名、自分のためにある店だと思ってしまうのは快晴だけでなく、仲間内でもそのようだ。思えば高校生の頃、隠れ家的な店があるとクラブの中で話題になって面白見たさに一度行って以来、快晴はこの店の前を通れば十中八九立ち寄っている。
この店には噂があって、雨の日にしか店を開けないというのだ。
確かに、晴れた日に「あまやどり」という名前の店はやっぱりおかしいし、快晴の記憶では雨の日にしか立ち寄っていない。やっぱり雨の日にしか店を開けていないのだろうか――。
「まあ、時間もできてしまったことだし……」
快晴は迷わなかった。というよりも店が出す不思議なオーラに吸い寄せられるように、足が自然に階段を上っていた。
* * *
快晴が入り口の扉を押すと、優しいカウベルの音がカランコロンと鳴った。とりわけ目玉になるようなものがないのに関わらず、すべてが雨をしのぐために来たわけではないであろうが、毎回けっこうな数の客が時間をくつろいでいる。
「いらっしゃいませ」
とカウンターの奥からマスターの声だけが聞こえた。店は概して古く、ずいぶん前から営業していたのは雰囲気で分かる。店全体にコーヒーの香りが染みていて、きれいなのだが壁や施設がところどころ壊れている部分がある。でも、快晴はこの隠れ家的な雰囲気が好きで、いつもの窓際の席に座った。窓には鏡文字で「や」の文字がペイントされていて、窓の下では色とりどりの傘が雑然と右往左往しているのが見える。
お冷やを持ってやって来た女性にいつもの注文を入れると立ち上がって、入り口付近の本棚から漫画を数冊持って再び席についた。
特に何をするでもなく、店内に流れる題名の知らないジャズに耳を傾けて選ばずに手にした漫画を読む。時おり雨粒が窓を叩いては視線を階下に写す。運ばれてきたホットのコーヒーにはすぐには口にせず、ふんわりと広がっていく香りを堪能するだけで、予想通りの不本意な天気に根拠のない刺を立てた快晴の気持ちは不思議と安らいで行くものだった。
だけど読み耽る物語も今日はどこか気が散って進まない。雨足が強くなり、窓の外を見ると雨に降られて通りを走って避難する人の姿がちらほら見られる。
「悪いな、この雨は俺が降らせたんだ」
と天の神様にでもなったの気で冗談を言うとそれがあながち冗談にも聞こえず、往来の者が上を向いてこちらをにらんだような気さえした。
関係ないよと窓から視線を逸らすと、入り口のカウベルがカランと音を立てた。快晴はつられてそっちに目を遣ると、年の頃な似たような感じの、とりわけ色白の女性が入って来るのが見えた。
作品名:晴天の傘 雨天の日傘 作家名:八馬八朔