ミッちゃん・インポッシブル
4.ミッちゃん、紐育へ行く
「やっぱり緑はいいわねぇ」
「僕も同じだよ」
ミッちゃんは愛する夫、四方正と共に紐育に来ている。
正は私立探偵、光子はその妻にして助手でもある。
紐育に来ているのは実は仕事がらみ、とあるプロ野球チームから獲得予定選手の素行調査を依頼されたのだ。
報告書の内容は……おそらくチームは別の選手を探すことになるだろう。
ともあれ仕事は終わり、遅ればせながらのハネムーンとばかりに紐育の休日を楽しんでいるのだが、元より都会派とは言えない二人、三日も経たない内に世界一の大都会の喧騒に少々疲れてしまい、今日は予定を変えてセントラルパークでのんびりしているのだ。
「あら、あの子……」
「ああ、どこから迷って来たんだろう」
樹木の根方で一匹の子犬がうずくまっている、見るとリードが木の根に引っかかってしまい動けなくなっているようだ。
「今外してやるからな」
正が根に絡んだリードをほどいてやり、光子は子犬を抱き上げた。
「飼い主さん、近くにいるかも」
光子が見る限り、子犬は汚れてもいないし弱っている様子もない、何か大きな音に驚いたりして駆け出してしまい、飼い主からはぐれたのかも知れない。
「そうだな、こんな時は無闇に動き回らない方が良いだろう、飼い主がどこかで情報を得ているかも知れないからな」
正は持っていたミネラルウォーターを手に受けて子犬に飲ませてやった。
子犬は人には慣れている様子で、ぴちゃぴちゃとおいしそうに飲んだ。
「ああ、こんな所にいたのか」
しばらく子犬と戯れながらベンチに座っていると、駆けて来る大男がいた。
(妙だな……)
正はその男が本当に飼い主なのか怪しんだ。
まず服装が妙だ、黒いスーツに革靴、そしてサングラス、セントラルパークで犬と散歩する格好ではない。
そして子犬の様子。
もしその男が飼い主ならば喜ぶはず、ところが尻込みさえしているのだ。
そして……。
「よしよし、おいで」
男が手を差し出すと、子犬はその手をガブリと噛んだ。
「痛ぇ! このクソ犬! 何をしやがる!」
その言葉を聴いて、正は子犬を抱き上げてしっかりと抱えた。
「あなたはこの子の飼い主ではありませんね?」
「いや……まだ慣れていなくてね」
「それはどうでしょう? 我々は間違いなくこの子とは初対面でしたが、人には慣れていましたよ……逆ですね、この子はあなたを知っているようだ、そして恐れている、あなたはこの子を虐待したのでは? それとも飼い主が酷い目にあわせられたのを見て逃げ出したとか、そんな風に感じますね」
そのやり取りの最中、正は手まねで光子にこの場から離れるように伝えた。
それはつまり……光子はその意図を汲んでその場をそっと離れ、公衆トイレに駆け込んでコンパクトを取り出して鏡に向って呪文を唱えた。
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン 子犬になぁれ」
たちまち光子は虹色の光に包まれた……。
「ワン、ワワワン?」
光子は動物に変身するとその動物の言語を扱えるようになる。
人間ほど詳しい言語を持ってはいないものの、犬程度の知能があればある程度の会話はできる、人間のように本心を隠したり嘘をついたりはしないからそれでも充分なのだ。
「ワワン ワワワワワン」
子犬は光子の問いかけに答えてくれた。
やはりその男は飼い主ではなく、飼い主を殴り倒して拉致したらしい。
「ワンワン ワワン」
自分も連れて行かれそうになったが、隙を見て逃げた……と。
「ウウウウウウ……ワン!」
正には犬語は通じないが、光子は歯を見せて唸る事でこの男は悪人だと正に伝えた。
「とにかくその犬を渡してもらおう」
「いや、あなたにはこの子を渡すわけには行きませんね」
男と正は揉み合いになった。
正ならば大男を相手にしても簡単にやられてしまったりはしない、光子は素早くその場を離れ、今度はハムスターに変身して戻った。
何かあった時、その姿ならば正のポケットに潜むことができるからだ。
だが、乱闘になどなってはいなかった。
正は唇を噛んで大人しくしている、見れば大男はポケット越しに何か固いものを正に突きつけている、おそらくは拳銃……。
光子は素早く正のズボンを駆け上ってポケットに身を潜めた。
銃を突きつけられて車に押し込まれた正と子犬、そしてポケットに潜んだ光子が連れて来られたのは港の倉庫街の片隅にある、今にも崩れそうな廃倉庫。
そしてそこには先客がいた、白衣を着た三十代くらいの男。
子犬は彼を見るなり正の腕から飛び降りて、その男に駆け寄った。
彼がこの子の飼い主である事は疑いようがない、それほど子犬の様子は嬉しそうだった。
「誰だ? そいつは」
白衣の男を見張っていた、別の黒スーツが正を一瞥して言う。
「ワン公を連れていたんだ、セントラルパークで見つけて保護してただけらしいが、素直に犬を渡さねぇもんでね、銃で脅して拉致して来た」
「まあ、あそこじゃ人目もあって手荒な真似はできねぇから仕方がねぇか……とりあえずこいつと同じに縛っとけ」
「ああ」
「ワン公も連れて来たのか、首輪さえありゃそいつは用なしだろうが」
「ああ、だけどこの男がしっかり抱きかかえてるもんでね、引き剥がして捨ててくるにも人目についていけねぇと思ってよ」
「まあ、いい……ああ、そうだ、実験用に丁度良いな、首輪を外したら縄でも首に巻いて繋いどけよ」
「ああ、そうしよう」
黒スーツの二人は子犬から首輪を外し、縫い目を切り裂いて中から小さなカプセルとミニSDカードを取り出した。
「あったあった、手間ぁ取らせやがって」
「じゃあ、俺はこれを博士の所へ持って行って確認してくるぜ」
「ああ、なるたけ手短に頼むぜ、ヤンキースの試合が始まっちまうからな」
「ああ」
一人が倉庫を出て行くと車を発信させる音が聞こえて来た、そしてもう一人は床に直接置かれたCDラジカセで小さくヒップホップ・ミュージックをかけると、銃を手にしたままリズムを取っている。
ハムスター姿の光子はそっとポケットから這い出して正の腕を縛っている縄を齧り始めた、縄は硬くて太い、齧り切るにはかなりの時間がかかりそうだ、それでも光子は必死に齧り続けた。
「どういう事なのか教えてはもらえないのかな?」
正が落ち着いた口調で言った。
「手前ぇに教えてやる義理はねぇな、隣の男にでも聞いちゃどうだい? 俺らは別に構わねぇんだ、その科学者さんにはまだ用があるかも知れねぇが、手前ぇとワン公は用済みだ、こんな所にゃ誰も寄り付きゃしねぇが銃声はちと拙いんでね、でかい声で騒ぎ立てなけりゃここをずらかる時までは生きてられるぜ、その後は保障しないがね」
正は憎憎しげに黒スーツを睨むと、白衣の男に向き直った。
「教えてもらえますか?」
「ええ……その前にボンゾが……この子の名前ですが……親切にしてもらえたようで感謝します」
そう前置きすると、白衣の男はとつとつと話し始めた。
作品名:ミッちゃん・インポッシブル 作家名:ST