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急行電車 9~7両

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 あの黒は確かに七両目に吸い込まれた。私もそれと同じで吸い込まれたものだが、私は確かに七両目に行くようだが、あの黒はここにはいなかった。つなぎ目は毎度のことながら車内とは違うもののようで、ここだけが普通の、いつもの京王線のように思える。ここに居続けることは全く意味を持たず、聞こえてくる音はただの騒音で、この音を気持ちよく、電車の音だと騒いでいた田舎の私はもうここにはいない。これまで通り、目を閉じて、先のドアをスライドさせる。

 今回はすぐに目を開けると決めていた。その車両に微かにある何かを、視覚を失うことでどうにか感じていた先ほどまでの車両での余裕は今の私にはなかった。一刻も早くあの黒の正体を知りたかった。なぜそこまであの黒にこだわるのかは至極謎なのだが、どうにもあの黒は大切なものの気がしてならない。私の記憶のどこかに眠ったままの大切な記憶がその姿をできるだけ正確に表そうとして、黒という三次元でもない、二次元でもない、何かに姿を変えて現れた。そう考えたら、その記憶との再会なのだ。
 目を開くとそこには黒ではないが、何か色が見えた。それと同時に細かい羽音が聞こえる。この音はあいつだ。ハエのような蚊のようなあの小さな虫だ。案の定、見えていた色はその虫の大群が暖房で暑くなった車内に同化していたものだった。
ここで一つ言っておくが、私は虫が大の嫌いだ。納豆の次に嫌いである。
口に、鼻に、耳に、虫たちは触り、擦れ、入り込み、私の全身の嫌悪感の神経を刺激する。悲鳴を出す余裕はもちろんなく、私はただただ、この電車のどこかの窓が開き、虫たちがさっきの音みたいにさーっと消えてくれないかと願っていた。
嫌なものを避けたいが、体は動かず、相変わらず、虫たちは私の体をもてあそぶ。全身の神経に反して、目だけはかなり冴えていた。今、空気に混じって飛んでいる虫たちにもそれぞれ大きさ、色があり、黒と思われた空気は実は深緑だった。それはちょうど森の闇に似ていた。そしてこの冷静な観察とは裏腹に、私の意志はここから早く出ていきたいというものだというものは、おそらくほかのだれも気付くことはできないだろう。
九両目のように虫たちは窓からは出ていかなかった。それどころか、私の周りの黒の色を濃淡にし始めた。緑の新葉が地面に降り積もるように重なった虫たちは己の色を窓の向こうにも伝染させたようで、電車の向こうから見える景色はただただ真っ暗だった。それでも、電車は確かに動いているようで、その黒がかすかに窓越しに動いているのを見ると、やはり向こうは健全なのだと安心した。

安心だのなんだのと考えているが体はもう限界だった。全身に触る虫たちの小さな羽や、足が実に気持ち悪い。
私は思い出した。九両目で音が窓から飛び出たのは私が動いたからだった。今の私は、金縛りにでもあったかのように、全く動いていない。動けないのだ。呼吸に伴う肩の上下を最小限に、いや、なくして、心臓から流れ出る深紅の血の脈打ちをなくすように、半ば死んだ気持ちでいた。両手両足を使い、行動を大きく見せたなら、この虫たちは窓をすり抜けてどこかに消えるのだろう。だが、それができずにいた。反射的な行動をするにはもうタイミングが遅く、意識的な行動には何かが欠けていた。
それでもやはり気持ちが悪い。動く車体は私の微動だにできない体を強引に動かすほどの揺れを出さずにおとなしく走っている。
突然、虫たちが消えた。私は一切動いていない。呼吸も、鼓動も、他のすべてを消していたと思う。それでも虫はさっと消えた。窓の向こうに黒い塊が見えたので、私はその塊にむけ手を振った。本当に謎の行動の連続だった。嫌なものがもうここにはないのだから、気持ちよく、電車に揺られればいいはずなのに、なぜかあの嫌悪の喪失を惜しんでいる。それしかこの車両にはなかったから、その欠如による空白を嫌っているのだろうか。嫌なものを欲する。
私はなんともおかしな感性を持ってしまったようだ。

空白となった七両目に私は居続けた。虫たちが突然消えた理由を探していたからだ。この車両にほかの存在は感じられなかったが、もしかしたら隠れているだけなのかもしれないと思い、車内を歩いてみた。窓の外からの光で、歩く足元に影が作られる。
椅子の横についている仕切りに人はよくもたれかかろうとするが、私は東京にきたばかりの時、その行動の意味が全く分からなかった。人はみな、狂ったかのようにその端を狙い、捕え損ねると落胆の様子を浮かべる。なんだ、そんなに壁に寄り掛かる快楽があるのかと、私も一度、壁を妄信的に狙ったことがあった。満員電車で何とかそこにたどり着いたとき、私より高い位置からの視線が強く、降り注いだのを確かに記憶している。そして、それにおびえながら、目的の駅へと時間を過ごしていると、ああ、そういうことかと私は納得した。人はみな、もたれかかりたいのではない。自分の存在の範囲を守りたいのだ。こうして背中をつけていれば、私の足場は確保され、ヒトがどんどん入れ替わる不安定な車両の中で、確固たる居場所を保つことができる。人はみな、それを望んでいるのだ。
別の日に、また壁を求めて車両を次々に進んでいたときに、空いている空間を見つけて喜んで人より先にとそこに向かったときに、そこに小さな女の子がいたときの驚きはまあ、大きかった。電車の音に掻き消されて、聞こえなかっただろうが、私は小さく声を出してしまった。そう、ここは隠れることもできるのだ。
そういうわけで、私はきっとこの車両の椅子の壁のどこかに小さな人が隠れていると考えた。その人、が何らかの行動を起こしたので、虫たちは一斉に消えたのだと考えたのだ。そして私を挟んで両脇に並ぶ椅子を確かめるように私は車内をうろついていたのだが、一周してもどこにも人はいなかった。虫たちの消滅は一体何が原因だったのか。
八両目のあの影は結局ここにはいなかった。そして、ここには誰もいなかった。

もうここにいる意味もないなと私は六両目に向かって歩き出したのだが、久しぶりの平穏の車両を楽しむというより、違和感をもって歩いていた。昔、知らない大学に何となく入ったときと似た思いがめぐる。知らない建物と人がそこら中にあり、ざわざわしているキャンパスと、既知で、余計なものなど一切なく、時間だけが車両と共に流れていくこの車内は反対に位置していると考えてもいいのだが、そこに生じた思いは同じであった。心が静かに無関心に体を進める。
ざわつく景色も、何にも干渉されない時間の流れも、私には同じ感情を運んできたのだ。

六両目は、何が起こるのか、私は少し楽しみになってきた。八両目の影にもう一度会ったら、それはそれであのなつかしさの、興味を持った根本を解き明かせるので良いのだが、八両目から続くはずの再会をこの車両が拒み、別の事象を体験させるならば、それはそれで楽しもうではないか。新宿までの短い異端な電車旅行を私は楽しもう。
作品名:急行電車 9~7両 作家名:晴(ハル)