急行電車 9~7両
ほんの少ししてまた、音たちが外に出ていってしまった。車内を音でいっぱいにして、体をその中に埋めることはできない。今回の放出の原因はわかっている。私が動いたからだ。
ほんの少し、髪を掻く仕草。これだけで音たちはどこかに行ってしまった。ギターを弾く女の目には涙がある。落ちることなく、消えることなく、ただそこに漂っている。それを助け、そこに縛っているのはおそらく、間違いなく音たちなのだろう。涙で体が溢れないように少しづつ体の内側から出させるのは、音。それを飛んでいく音たちの背中には乗らせないのも、音。勢いよく音に乗せて涙を飛ばせたら、彼女はこの夢想空間からいなくなるだろう。その一部始終を見続け、もしくは助けることは、感性のない私には到底無理なことで、女の涙を飛ばすことに恐怖を覚えた。私は一刻も早くここから出ていきたくなり、後ろのドアに手をかける。しかし、どうにもそれを開ける気にならず、行き先がなくなった。強引に開けようなら。私はその先を想像できない。期待してきたはずの九両目ではただ感性の無さを痛感した。
それならば、八両目に行ってみるか。
いつも通り横に並んだ椅子に座った女を横目に通り過ぎる。歩くたびに音が邪魔するかのようにいばらの道を作るが、それは空想の物で全く痛くない。なぜか気分はかなりプラスなものだった。
電車はどうせまだ止まらない。このおかしな電車をすべて見て回るのも悪くはない。九両目の先頭に手をつくと、後ろを振りむいた。女はまだ弾いている。その感性はいかほどで、私はそれのどこまで手が届くのか。そのメロディーに乗せて答えをもらいたいが、そううまくいくはずもなく、ただ電車の音の一つになった。
コードが気持ちよく進行すると、電車のスピードが速くなった気がした。移り行く景色もどんどん混ぜられていく。定まった色はそこにない。音はどこまでも、どこまでも届くようで、最後尾に向かって飛んでいたはずの音が先頭でもちゃんと聞こえている。それがさっきまでの物とどこか違うかと聞かれても、何もわからないあたりがやはり、私の感性なのだろう。
最後に口笛を吹いてみた。なんとなくの音はちょうどギターの音の隙間に響いた。
「いいですね。その音。気に入りました」
女は微笑み、さらに音を足した。このままだと電車はさらに速度を増す。そして目的地についてしまう。急行電車はだいぶ早いのだ。
八両目に行こうか。
ドアを開けたあたりから目を閉じたようで、周りはまた暗くなった。暗い中で繰り返す妄想は嫌いではないし、それを恐れることもないが、こうも暗いと目が見えなくなったのではないかと疑ってしまう。
九両目では目を開けると音が飛び込んできた。おそらく今回も視界以外の何かが飛び込んでくる。車両のつなぎ目を先に進む。両手を壁に当てながら、道を作っていく。夢か、現実か、その境目を想像しながら先に進む。
昔見た記憶があった。題名もきっちり覚えている、映画のワンシーンが今、目の前に広がっていた。一つ違うのはあの映画は海の上を走る電車だったが、私の電車は東京を走る。いっそ海を走ってくれればどこまで空想に浸れるだろうか。
どこかで会ったような人に偶然駅で会い、ああ、あなたと言いたくなるのは人がここまで多くいる東京ならではだろう。田舎なら一度会ったならばすぐにまた出会う。そういう体面的なもの以外に、もう一つ。東京の駅は人が通るのだが、その人はただの人形で、同じような恰好をした動物に過ぎない。だから同じものの中に見たことのあるものを見つけた時、人はそこに運命を感じるのだろう。
なぜこんな根拠も浅いことを考えたのかというと、今電車の椅子にそういう人が座っているからだ。いつも通りの灯りに、いつも通りのアナウンスに、いつも通りの乗客。移り変わる景色もいつも通りの速度で流れ、混じることなくきちんと存在を示す。
一つ、やはり急行電車だからだろうが変な箇所があった。座っている人が,皆同じなのだ。服装や顔立ちの話をしているのではない。皆、それぞれ違う格好をしているのだろうが、その色が黒なのだ。いや、半透明の黒。黒い靄が型をもって座っているようにそこにいる。時折その黒は首を傾げたり、足を組んだり、と自由に動く。同じ黒が椅子を全て埋めている。
思い返せば、私の行為、最後車両から先頭へ向かって歩く行為は席を探している人と同じものだった。
昔見た映画にもこの黒はいた。電車に乗った黒たちは普通に人間を過ごし、普通に電車を降りていた。輪郭だけがしっかりと見えるその黒たちを横目に電車を進む。十両目に感じた足の早まりはもうなかった。重力のように体が慣れてしまったのだろう。
外の明るさがその黒をぼやかすのかと思ったが、一番の太陽が差し込んでも、黒は黒であり続け、まったく変化する様子をみせなかった。不気味だ。同じ黒が全く違う行動をし、私と同じように生きている。不気味だ。立っているのがやっとで、その黒たちが何で、どうやってその形を留めているのかなど考えもしなかった。もはやこの電車は現実ではない。夢か、ナニカだ。
さて、立つのがやっとといったが、そこから見える一つの黒に私は見覚えがあった。その一つを見るために立っている。同じ黒の中で存在を際立たせる何かをするわけでもない、一つだけに目が行くのだ。
「どこかでお会いしませんでしたか」
私は小さく聞いた。少し向こうに座っている黒が輪郭の、人間でいうと顔の部分をこちらに向けた。そのシルエットは男か、女か判別するものを持っていなかった。他の黒はスカートらしきひらひらや、ハットのようなものなどかろうじてその人の特徴を示しているが、その黒は何も持っていなかった。
「僕はあなたに会ったことがあります」
聞いたことの返事は返ってこない。その代りにその黒は何らかの反応を示した。おろおろとしているようにも思える。他の黒が座ったままの中、その黒は立ち上がり、こちらに向かって走ってきた。ほんの少しの距離だが、大きく。その無音の飛び出しに、私は「会いたかった」という言葉を見てしまった。誰だかわからない人に言われる運命的な言葉ほど怖いものはないだろうが、どうもどこにもストーカー的な意図が感じられなかった。
黒が私に抱き着こうと飛ぶと、八両目の先頭のドアがさっと開いて、掃除機のように吸い込む風を作った。八両目の中身がどんどん七両目に吸い込まれていく、はずだったが、風は車内に干渉しないようで、全く吸い込まれない。私と一つの黒は除く。
電車はどの車両も特に変わりなく存在するのが基本で、ホームで意識しなければ、階段に近い車両や、どこか適当な車両に入るだろう。そして目的の駅に着いて、改札口へ向かうエスカレーターが遠いと分かると、ホームでただ立っていた昔の自分の時間を惜しむのだ。
七両目とは私にとってそういう車両だった。調布の駅でも、新宿でもその七両目は中途半端で、開いた扉から向かう先は遠かった。走っている間の景色はどこも変わらず、ただ同じ時間を過ごすのに何の懸念も、違和感も持たないが、最後の最後にツケを回されたような気がしてならない。