急行電車 9~7両
九両目に入るとき、無意識に目を瞑っていた。その先に広がるであろう奇妙な世界を流れ作業の中で見たくなかったからだろう。明瞭な視界をもってその先の世界を享受したくなった、そういうことだろうと思い込んだ。
十両目と九両目の間、そこは車内ではないので、さっきの外国の空気はなく、昼間の澱んだ空気があった。雨の残りの感じもあった。車輪の擦れる音と、なにかわからないが耳障りなものが渦巻き、私の体を包んでいた。その為、私は目を瞑ったのかもしれない。体に入り込んでくるものをなるべくそぎ落とすため。九両目に入ってからも目を瞑っていると、視覚以外の情報も入ってこなかった。その不思議な現象から、この奇妙な電車は目を開けるとすべての現象が目を覚ますのだと強引に結論付けた。ドアを閉め、体を完全に九両目に入れ、少し深呼吸をし、ぱっと目を開いた。
最初に感じたものは音だった。視覚を取り戻したはずなのに出てきたのは音。なんともおかしいが、その異変が何とも気持ちがよかった。日常とは違う世界なのだと確実に理解できる瞬間だったからだ。
ドアを閉めた後の静寂を破ったのは私の腕時計の針の音で、そんな小さな音がこの車両の騒音だとかに勝るとも思えないが、事実、そうだった。私の体に密着したものだから一番に感じただけで、実際の音量は普通のものだったのだろう。腕時計の針の音がどんどん他の音に掻き消されていくと車内ではありえないような音が聞こえてきた。開いた目にはその音の持ち主がいるのだが、その姿が現代人の普通の格好ではなかった。茶色のコートのようなものに、どこか昔を思い出させる帽子を纏い、いつもの京王線の車内の椅子に腰を据え、ミニギターを弾いている。電車が車輪を削るたびに出る悲鳴に似た音は窓に邪魔されて聞こえないのだが、このおおきな楽器の音はどうやって邪魔され、時計の微細な音に負けたのだろうか。現実的な法則が無視される。
さて、どういう音が流れているのか、ギターの音色を聞きながら、その女、を見ながら考えていた。なぜ女とわかったのか。その理由を考えずにただ頭から出てきたなんとなくで私はその人間を女と決めつけた。その女はギターをアルペジオで弾いているのだが、その曲は私がよく聞くジャンル、現代ロックには到底似つかわしくなく、どこか農村で酒の会で弾かれる様な陽気なメロディーだった。しかし、リズムは激しくない。暗い照明にバーの片隅で弾かれるのも似合う気がした。つまり、私の日常には当てはまらない場所の音楽だった。弦からでてくる一音が走る電車に負けて私の方に向かって飛んでくる。形はなく、空気と変わらず、ただの振動が飛んでくる。私が立っているドアの横、九両目の最後尾の壁に突き刺さることなく壁に衝突し、力なく地面に積もる。力を失った綺麗な音は新たに出される音に反響し、わずかに振動するが、それに気づくものは私も含めいなかった。音だけがそれを知っているようで、新たに鳴り、電車の後部に飛んでいく音たちは何とかそのみえない存在を示そうと粗ぶり、鮭が川を上るときのような逆流が音にも生まれていた。その違和感を、弾き手の女と私は感じれずにいるようだった。
私はただずっと立っていたのだが、音たちが私に向かって飛んでくる様子はなかなか面白かった。体積を持たない極限に薄い紙がまっすぐ私に飛んでくるみたいで、私の真横に来た時だけほんの一瞬その姿を見せるのだ。そして、私の体には一切その音は当たらないのだが、きちんとその音を私は感じていることを考えると、やはり音は肌ではなく、耳を通じて空気を聞いているのだと実感する。その為に耳はあるのだとも実感した。
何か動いてはいけないように思えた。聞こえてくる音がただ気持ちいいから、体の動きで生まれる雑音を嫌ったからでもある。だがしかし、それ以上に彼女のテリトリーにこれ以上踏み込んではいけないように思えたからだ。
飛んできていた音たちはなんだかほんの少し量が増して、さらに色と匂いがついてきた。それは実に微かで、おそらくドアを開けるとき目を閉じて情報を少なくしておかなかったら気づかなかった程度のもので、その微細な変化に意味があるかと言われれば、おそらくほとんど意味を持たないが、ほとんどと考えている時点でこの変化にはきちんと意味がある。その変化の元凶は(要因でもいいが…)絶対的にあの女のもので、響く音の変化が軽やかで、鮮やかであるから、おそらく、気分的にはいい変化なのだろう。誰もいない、他の音は遮断されている車内で自分の音楽が響くのを楽しみ、その光景に酔っているのだろう。人によってはそういう酔いを恥ずかしいと感じるそうだが、私ははるか昔にそんなものはなくした。第一、気持ちいいのだ。なぜ人は付き合うのか、その理由の一つはセックスが気持ちいいからだろう。それをなぜ嫌う。それと同じくらい心酔することを嫌うのがわからない。その夢想空間は誰にも邪魔されるべきではなく、また、誰にも嘲笑されるべきではない。彼女も今、そういう世界に身を置いている。まず、この電車がそういう空間を許している。止まるはずのない急行電車、流れる二本の銀の飾り、あるはずのない外国の空気、現実はここにはない。
音が飛び交う夢想空間が九両目に広がり、私の足元が当たって砕けた音たちで埋め尽くされてきたころ、私は電車の少しの揺れに体を動かされた。すると突然その音たちが一気に窓をすり抜け外の世界へ飛び出していった。本当に突然の出来事で、私はそのみえないはずの音の残骸の消失に驚き、初めて意志を持って体を動かした。その服が擦れる極わずかな音に敏感に驚き、女は演奏を止め、こちらを見てきた。
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって。とても気持ちがいい演奏だったのでつい聞き入ってしまいました」
私がこういうと、女は嬉しそうに微笑み、ギターを横において、そっと座りなおした。
「今日はなんだか音たちが綺麗に飛んでくれて、私も驚いています。ただ、今日のこの音は気持ちがいいものではないんです。昨日、とある人が死んでしまって。そのときに頭に浮かんできたメロディ―なんです。音たちもそれをわかってくれているようで、命を捨てるように飛んでいくんです。だんだん悲しくなってきていたところでした。助けていただきありがとうございました」
全く違った。何が酒の会だ、バーだ。この音たちは挽歌の苦しさを何とかしようともがいていただけだった。砕けて積もった音たちから私は何も正しく感じ取れていなかった。体中の血液が暴れだし、体温が上がる。
「そうだったんですか。てっきり勘違いをしていました」
「あなたがどう受け取ったか、全くわかりませんけど、それはそれでいいとおもいますよ」
彼女はそういうとギターをもう一度握った。弦が擦れてまた微かに音がこぼれる。やはりその音は気持ちがよかった。そういうふうにやはり聞こえて、本当の音を感じれないのだから、私には感性というものがないのだろう。また、音が飛んでくる。一から飛び始めたからだろうか、飛行機の離陸のようにゆっくりとなっている。またそのうち早くなって壁に当たり、砕け、悲しみやその他の考えつかない、名前のない感情をどこかに運んでいくのだろう。
十両目と九両目の間、そこは車内ではないので、さっきの外国の空気はなく、昼間の澱んだ空気があった。雨の残りの感じもあった。車輪の擦れる音と、なにかわからないが耳障りなものが渦巻き、私の体を包んでいた。その為、私は目を瞑ったのかもしれない。体に入り込んでくるものをなるべくそぎ落とすため。九両目に入ってからも目を瞑っていると、視覚以外の情報も入ってこなかった。その不思議な現象から、この奇妙な電車は目を開けるとすべての現象が目を覚ますのだと強引に結論付けた。ドアを閉め、体を完全に九両目に入れ、少し深呼吸をし、ぱっと目を開いた。
最初に感じたものは音だった。視覚を取り戻したはずなのに出てきたのは音。なんともおかしいが、その異変が何とも気持ちがよかった。日常とは違う世界なのだと確実に理解できる瞬間だったからだ。
ドアを閉めた後の静寂を破ったのは私の腕時計の針の音で、そんな小さな音がこの車両の騒音だとかに勝るとも思えないが、事実、そうだった。私の体に密着したものだから一番に感じただけで、実際の音量は普通のものだったのだろう。腕時計の針の音がどんどん他の音に掻き消されていくと車内ではありえないような音が聞こえてきた。開いた目にはその音の持ち主がいるのだが、その姿が現代人の普通の格好ではなかった。茶色のコートのようなものに、どこか昔を思い出させる帽子を纏い、いつもの京王線の車内の椅子に腰を据え、ミニギターを弾いている。電車が車輪を削るたびに出る悲鳴に似た音は窓に邪魔されて聞こえないのだが、このおおきな楽器の音はどうやって邪魔され、時計の微細な音に負けたのだろうか。現実的な法則が無視される。
さて、どういう音が流れているのか、ギターの音色を聞きながら、その女、を見ながら考えていた。なぜ女とわかったのか。その理由を考えずにただ頭から出てきたなんとなくで私はその人間を女と決めつけた。その女はギターをアルペジオで弾いているのだが、その曲は私がよく聞くジャンル、現代ロックには到底似つかわしくなく、どこか農村で酒の会で弾かれる様な陽気なメロディーだった。しかし、リズムは激しくない。暗い照明にバーの片隅で弾かれるのも似合う気がした。つまり、私の日常には当てはまらない場所の音楽だった。弦からでてくる一音が走る電車に負けて私の方に向かって飛んでくる。形はなく、空気と変わらず、ただの振動が飛んでくる。私が立っているドアの横、九両目の最後尾の壁に突き刺さることなく壁に衝突し、力なく地面に積もる。力を失った綺麗な音は新たに出される音に反響し、わずかに振動するが、それに気づくものは私も含めいなかった。音だけがそれを知っているようで、新たに鳴り、電車の後部に飛んでいく音たちは何とかそのみえない存在を示そうと粗ぶり、鮭が川を上るときのような逆流が音にも生まれていた。その違和感を、弾き手の女と私は感じれずにいるようだった。
私はただずっと立っていたのだが、音たちが私に向かって飛んでくる様子はなかなか面白かった。体積を持たない極限に薄い紙がまっすぐ私に飛んでくるみたいで、私の真横に来た時だけほんの一瞬その姿を見せるのだ。そして、私の体には一切その音は当たらないのだが、きちんとその音を私は感じていることを考えると、やはり音は肌ではなく、耳を通じて空気を聞いているのだと実感する。その為に耳はあるのだとも実感した。
何か動いてはいけないように思えた。聞こえてくる音がただ気持ちいいから、体の動きで生まれる雑音を嫌ったからでもある。だがしかし、それ以上に彼女のテリトリーにこれ以上踏み込んではいけないように思えたからだ。
飛んできていた音たちはなんだかほんの少し量が増して、さらに色と匂いがついてきた。それは実に微かで、おそらくドアを開けるとき目を閉じて情報を少なくしておかなかったら気づかなかった程度のもので、その微細な変化に意味があるかと言われれば、おそらくほとんど意味を持たないが、ほとんどと考えている時点でこの変化にはきちんと意味がある。その変化の元凶は(要因でもいいが…)絶対的にあの女のもので、響く音の変化が軽やかで、鮮やかであるから、おそらく、気分的にはいい変化なのだろう。誰もいない、他の音は遮断されている車内で自分の音楽が響くのを楽しみ、その光景に酔っているのだろう。人によってはそういう酔いを恥ずかしいと感じるそうだが、私ははるか昔にそんなものはなくした。第一、気持ちいいのだ。なぜ人は付き合うのか、その理由の一つはセックスが気持ちいいからだろう。それをなぜ嫌う。それと同じくらい心酔することを嫌うのがわからない。その夢想空間は誰にも邪魔されるべきではなく、また、誰にも嘲笑されるべきではない。彼女も今、そういう世界に身を置いている。まず、この電車がそういう空間を許している。止まるはずのない急行電車、流れる二本の銀の飾り、あるはずのない外国の空気、現実はここにはない。
音が飛び交う夢想空間が九両目に広がり、私の足元が当たって砕けた音たちで埋め尽くされてきたころ、私は電車の少しの揺れに体を動かされた。すると突然その音たちが一気に窓をすり抜け外の世界へ飛び出していった。本当に突然の出来事で、私はそのみえないはずの音の残骸の消失に驚き、初めて意志を持って体を動かした。その服が擦れる極わずかな音に敏感に驚き、女は演奏を止め、こちらを見てきた。
「ごめんなさい、邪魔をしてしまって。とても気持ちがいい演奏だったのでつい聞き入ってしまいました」
私がこういうと、女は嬉しそうに微笑み、ギターを横において、そっと座りなおした。
「今日はなんだか音たちが綺麗に飛んでくれて、私も驚いています。ただ、今日のこの音は気持ちがいいものではないんです。昨日、とある人が死んでしまって。そのときに頭に浮かんできたメロディ―なんです。音たちもそれをわかってくれているようで、命を捨てるように飛んでいくんです。だんだん悲しくなってきていたところでした。助けていただきありがとうございました」
全く違った。何が酒の会だ、バーだ。この音たちは挽歌の苦しさを何とかしようともがいていただけだった。砕けて積もった音たちから私は何も正しく感じ取れていなかった。体中の血液が暴れだし、体温が上がる。
「そうだったんですか。てっきり勘違いをしていました」
「あなたがどう受け取ったか、全くわかりませんけど、それはそれでいいとおもいますよ」
彼女はそういうとギターをもう一度握った。弦が擦れてまた微かに音がこぼれる。やはりその音は気持ちがよかった。そういうふうにやはり聞こえて、本当の音を感じれないのだから、私には感性というものがないのだろう。また、音が飛んでくる。一から飛び始めたからだろうか、飛行機の離陸のようにゆっくりとなっている。またそのうち早くなって壁に当たり、砕け、悲しみやその他の考えつかない、名前のない感情をどこかに運んでいくのだろう。