佐藤酒店のマドンナ
「でもいろいろと不自由なんじゃない? お年寄り二人だと」
「そうだね、まあ、おやじはもう運転はできないから二人とも医者には送り迎えしてやらなきゃならないし、おふくろもそうそう無理は効かない体だしね、何かあった時のためには俺が傍にいた方がいいんだろうね」
「どう? 久しぶりにこっちに住んでみて……退屈でしょう?」
「そうでもないよ、結構居心地がいい」
この町に戻ってまだ三ヶ月ほどだが、確かに時間の流れ方が心地良く感じられる様になっている……東京でバリバリ働いていた頃は帰省してくるとテンポの遅さにイラついていたのだが……。
「それにしても、この商店街……高校の頃は結構活気あったけど……」
「そうね、大型量販店が来てからは寂れる一方よ」
「でも頑張ってるじゃないか、シャッターが開いてるだけでも大したもんだよ」
「まあ、飲食店や旅館への配達で何とかね、でも小売の方はさっぱりよ」
「看板娘がいるのにね」
「あたし? 看板おばさんの間違いでしょう? ずいぶん古ぼけた看板よぉ、ホーロー製だったりしてね」
くりっとした目を細め、大きく口を開けて明るく笑う……中学時代そのままとまでは言わないが、今でも充分に魅力的な笑顔だ。
「そんなことないさ、中学の頃、マドンナだったじゃないか」
「まさかぁ、ちっともモテた憶えないわよ」
「あの頃は今みたいにオープンじゃなかったからね、だけど君を好きだって奴、たくさんいたよ」
「嘘よぉ」
「そんなことないよ、現に……」
がらりと戸が開き、がっちりした男が軽く会釈しながら入ってきた。
「あら、お帰りなさい、お疲れ様、ビール冷えてるわよ」
「いや、もう一軒だけ配達してくる、三十分くらいで戻る」
「そう、ご苦労様……気をつけてね」
空のビールケースを三つ重ねて抱えて戻って来てまたすぐ今度は中味の詰ったケースを二つ重ねて抱えて出て行った。
「旦那さん?」
「そう、高校の同級生だったの、野球部の四番バッターでね、あとひとつ勝てば甲子園ってとこまで行ったのよ」
「力持ちだね、二つ重ねたビールケースを軽々だ」
「そうね、それに口数が少ない働き者、酒屋には持ってこいの旦那よ」
「それが魅力だったの?」
ちょっと意地悪く言ってみる。
「うふふ……まさか……高校生の頃はもっとスマートでカッコ良かったのよ、でも同窓会で再会した時にはすっかりずんぐりになっててね、みんなに騒がれてた頃は遠巻きに見てただけだったけど、その時すっかり親近感覚えちゃって、同窓会の帰りに……あ、お帰り」
今度は小学生くらいの男の子が二人、野球のユニフォーム姿で飛び込んでくる。
「ユニフォームの泥は落としてから入ってっていつも言ってるじゃない……ほら、靴を放り出さないで」
「腹減った!」
「ご飯まだ?」
「まったく他に言うことってないのかしらね、今支度するから先にお風呂入っちゃいなさいよ!」
「元気だねぇ、息子さん?」
「そう、男の子二人の年子、やんちゃで手を焼くわ」
「ははは、男の子は元気が一番だよ……すっかり話し込んじゃったね、早く晩ご飯の支度してあげて、旦那さんも三十分で帰るんだろう?」
「ええ……ところで何を差し上げましょう?」
「あ……そうか、醤油を買いに来たんだった……それと、これ、見かけないビールだけど」
「ああ、それって地ビールなのよ」
「へえ、こんなのがあったとは知らなかった、量販店じゃ扱っていないからね……これ貰って行くよ、六本入りを貰おうかな」
「小瓶だけどカンと違って重いわよ、届ける?」
「いや、下げて帰るよ、これしきで旦那さんの仕事を増やしちゃ申し訳ない……じゃ、また」
「ありがとうございます、またどうぞ……あのね、小山君」
「何?」
「今更だけどね……中学の頃、あたし、小山君のこと好きだったのよ」
「え?……」
あっけにとられる俺を置き去りに彼女は座敷の方へ駆け上がって行ってしまった……。
佐藤酒店を出てアーケード街を歩く間、ちょっとふわふわした足取りになる。
忘れかけていたとは言え初恋の女性に『好きだったのよ』などと言ってもらったのだ、気分が悪いはずもない……もっとも、先に言われてしまっては、さっき言いかけていた『現に俺だって好きだったんだよ』という台詞は胸にしまっておいたほうが良さそうだが……。
アーケードを抜けると、夕方とは言えまだ夏の日差しが照りつけている、俺は手をかざして空を見上げた。
入道雲……不恰好だが力強く、田畑を潤す夕立を降らせる雲……子供の頃は珍しくもなかったが、ずいぶん久しぶりに見たような気がした。