佐藤酒店のマドンナ
1.佐藤酒店
その古ぼけた酒屋の前に立つと、忘れかけていた記憶が蘇った。
田舎町の商店街、駅へと続くアーケード街になっている、俺がこの町に住んでいた高校生の頃はそこそこ活気があったものだが、大型量販店が進出してきてからと言うもの、すっかりいわゆるシャッター商店街になってしまっていて、アーケードのテントもところどころ破れたままだ。
日曜の午後、俺もご多聞に漏れず大型量販店で一週間分の買出しを済ませて帰ってきたところだが、うっかり醤油を買い忘れたのに気付いた、他はともかく醤油は切らすわけにも行かない、そんなわけで久しぶりにこのアーケード街にやって来たのだ
高校時代、くそ真面目なガリ勉だった俺にとって酒屋と言うのは縁のある店ではなかったが、特別な意味を持った店ではあった。
初恋の娘の家だったのだ。
佐藤留美子さん。
彼女は中学校のマドンナだった。
特別に美人と言うわけではなかった、少し丸っこい顔に小ぶりな鼻、ただ、くりっとした目を細めて彼女が微笑むと誰もが柔らかな気持ちになり、大きな口を開けて笑うとこっちまで嬉しくなる、そんな明るい娘だった、そしてその笑顔に魅せられていた男子は俺だけじゃなく沢山いた。
彼女は軟式テニス部のエース、少し丸っこい顔と裏腹にすらりと伸びた手足を露わにしてボールを追う姿は男子なら誰でも目を奪われた、そして裏庭にあったテニスコートは図書室から良く見え、俺はしばしばそっと見つめていたものだ。
それに引き換え、その頃の俺はと言えば、学業成績こそトップクラスだったが真面目一方でスポーツも苦手な地味きわまる図書委員、女の子にはとんと縁がない、とてもマドンナに告白などできなかった。
結局告白することも出来ずに中学を卒業してしまったが、高校に行くようになってからも毎日このアーケード街を通って通学した。
帰り道、時折彼女が店番をしているのを見かけることはあったが、酒を買うということもなかったので、いつもチラリと視線を送るだけで通り過ぎたものだ……。
しかし、二十年も前のことだ、彼女は俺と同い年だから三十五歳、もうとっくに嫁に行っているんだろう、と思ったのだが……。
「いらっしゃいませ……あら? もしかして……小山君?」
「そう、憶えていてくれたんだ」
「小山君こそあたしを憶えてくれてたの?」
「ああ、この店の娘だって知ってたし……でもまだいるとは思わなかった」
「オールドミスってわけじゃないわよ、男兄弟がいなかったから婿養子に来てもらったの」
「なるほど、そうだったんだ」
「小山君こそ、○橋大に行ったって聞いてるわよ、この辺じゃ話題になったもの、てっきり今も東京に住んでると思ってた」
「ああ、向うで働いていたけどね……暮れにおやじが倒れてね、おふくろもあんまり丈夫な性質じゃないからさ、年寄り二人にはしておけないんで戻って来たんだ、四月から県庁勤めしてる」
中学校の成績が良かった俺は県内トップの進学高に進んだ、そして一年生の秋の学力テストは自分でも思いがけない程の成績だった。
「うん、この成績なら東大も夢じゃないな」
担任の言葉の向うに、生まれてこの方十六年を過してきた田舎町とは別の世界が浮かび上がった。
日本の中心・東京でバリバリと働くエリートビジネスマン、都心の高層マンションに住み、おしゃれなレストランで食事してミュージカルや海外アーティストの公演を楽しみ、毎年のように海外旅行……いや、世界を股にかけて仕事をすることも……。
それまでは俺の世界のほとんど全てだったこの小さな町が急に色あせ、つまらないものに思えて来た。
その思いを胸に俺はがむしゃらに勉強し、東大にこそ少し届かなかったものの、経済学、商学では一流と言われる国立大の商学部を卒業し、一流商社に就職した。
夢見たとおりのエリートビジネスマン……すっかり都会派を気取った俺は存分に独身貴族生活を楽しみ、三十二歳の時にキャビンアテンダントの女性と結婚した。
彼女は東京生まれの東京育ち、語学が達者で国際線勤務、一年の半分以上は日本にいないが、お互いにそれぞれの自由を束縛しないという取り決めの上での結婚、それは俺も望んでいた自由な結婚の形だった。
結婚して三年は上手く行っていた、都会では金さえあれば妻が不在でも暮らしに不自由することはなく、むしろ不在がちであるが故に恋人時代と変わらない新鮮な気持ちを保てる、海外へのフライトを終えて数日ぶりに帰国した妻とデートを楽しんだ後は一緒に都心の高層マンションに帰り、都会の夜景を楽しみながら肩を寄せ合ってワインを……夢見た通りの生活だった。
その生活にひびが入ったのは俺の仕事上の躓きが発端だった。
颯爽とまとめてきたつもりだった海外の企業との取引、しかし向うの企業は思うように動いてくれずに製品が届かない、むろん非は相手の企業にあるのだが会社の信用に関わる問題、のんびりしたお国柄の国の企業との取引にはそういうリスクがある事はわかっていたつもりだったが、それまでそういう事態に直面したことがなかった俺は甘く見ていたのだ。
当然その穴埋めに走りまわらざるを得ない、彼女が久しぶりに日本に戻っても一緒に食事することさえままならず、へとへとになってマンションに戻っても彼女は背中を向けて眠っている……ようやく事態を収拾したとき、疲れ切っていた俺が求めていたものは家庭の安らぎだったが、彼女はそれを与えてはくれなかった……だがそこに文句を付ける事は出来ない、なにしろお互いの自由は束縛しない約束だったから……。
離婚は彼女の方から切り出して来た、未練は多少あったものの俺は黙って判を押した。
それからというもの、俺は少し腑抜けたようになってしまった。
都会での刺激的で洗練された生活、エリートとしての自分、自立した女性との自由な形の結婚生活……それら全てがまるで砂上の楼閣だったように感じられる……華やかなイルミネーションで夢を売るエレクトリカルパレードの山車は昼間見ればただの針金細工だ、自分の結婚生活も同じようなものだったと思い知った……仕事にも身が入らない、商社の仕事は金以外の何物も生み出しはしない、何かを作り出すわけでも汗を流して商品を運ぶわけでもなく、ただああしろこうしろと指示しているだけ……砂上の楼閣と同じだ……そんな風にしか思えなくなっていたのだ。
そんな時、父が倒れたという報せを受けた、脳梗塞だった。
幸い手術は上手く行き、命に別状はなかったが、右半身には麻痺が残った、母は元々丈夫な性質ではなく、五年前に肝臓を患ってからというもの、父が頼りだったのだが、その父も不自由な体となっては二人きりにしては置けない、姉はいるものの遠方に嫁いでいる……俺が戻るほかない。
敗北感はなきにしもあらずだったが、郷里にUターンすることに迷いはなかった。
『勝手に勝ち誇ってろ』……そんな気持ちだったのだ。
「そうだったんだ……ご両親ともお悪いんじゃ大変ね」
「そうでもない、おやじも不自由にはなったけど食事やトイレは何とか一人で出来るしね、おふくろもおやじが弱ったらあべこべにしゃんとなってさ、戻っては来たものの俺のやることなんか大してないんだよ」