佐藤酒店のマドンナ
2.少年野球
町の少年野球大会。
東京にいた頃なら見向きもしなかっただろう、妻が野球に興味がなかったこともあるが、俺自身もスポーツにはさして興味がない方、ドーム球場でのメジャーリーグ公式戦でもなければ食指も動かなかった。
しかし、今は麦藁帽子をかぶって炎天下の小さなスタンドで子供達の野球を見ている。もちろんメジャーリーグと比べられるようなものではない、しかし、メジャーリーグで
は味わえないものもそこにはあった。
留美子さんはスタンド最前列に陣取って同年代の母親達と声援を送っているし、チームの監督を務める旦那さんはベンチに座る間もなく歩き回って子供たちに声をかけ続けている。
こんな光景は俺にも覚えがある……。
六年生の夏、へたくそでレギュラーにはなれなかったが、監督にぽんと尻を叩かれてバッターボックスに向った覚えが……三振こそしなかったが、三振の方がましだったかもしれない、何とかバットに当てた俺の打球はボテボテのピッチャーゴロ、相手の守備もモタモタしてはいたが、俺の足は輪を掛けて遅かった……少年野球では珍しいダブルプレーでゲームセット、一回戦敗退……ファーストベースの三歩手前でボールが一塁手のミットに収まった瞬間は泣きたい気持ちだった……それ以来バットにも触れていないが……。
グラウンドはあの頃とちっとも変わっていない、ところどころ朽ちて割れてしまっているスタンドの板もおそらくあの頃のまま……。
俺が中学生になり、高校生になり、東京の大学へ行き、就職し、結婚して都会の生活にどっぷりと浸かり、そして挫折を味わい、離婚してUターンして来る間、このグラウンドはずっと子供達の元気な声で満たされ、壊れかけた小さなスタンドは子供に声援を送る母親達で埋まっていたのだ。
佐藤酒店の年子はチームの六番と八番を務め、三塁打を放った兄が弟のショートゴロの間にホームに還ってチームはサヨナラ勝ち、最前列の母親達は飛び上がって手を叩いているし、負けたチームの方の母親達も手を振っている。
小さな町の少年野球場の小さなスタンド、誰もが顔見知りだ、留美子さんは俺に向ってガッツポーズを見せ、俺も親指を立てて答える。
これが人の暮らしだ……。
俺はしみじみ思った。
それぞれに汗を流して働き、子供を育て、子供の成長を楽しみに暮らして行く、そしてその子供も大きくなってまた……。
誰もが顔馴染みの狭い社会だと言えばその通りだ、でもそこに信用できない人間は居ない、人を騙したり貶したりすれば必ず自分に帰って来る、誰もがその事を知っている……。
「お帰り、野球、どうだった?」
「ああ、面白かったよ」
家に帰ると母親が麦茶を出してくれた。
「暑かったろう?」
「まあ、暑いけどさ、不快な暑さじゃないな」
「そうかい?」
「東京だとさ、もっと蒸すんだよ、二酸化炭素による温室効果って奴だね、こっちだと日差しは強いけど麦藁帽子があれば凌げるからね」
「そんなものかね」
「ああ、それにあれが人の暮らしって言うものだな」
「なんだい? 藪から棒に」
「つまりさ、人は何からも自由なのばかりが幸せなんじゃない、人の営みってのはそれなりに自由を束縛するけど、それは義務であると同時に権利でもあって、それがあってこそ精神的には満ち足りるんじゃないかってこと」
「何のことかさっぱり分らないけど、田舎暮らしもいいもんだってことかい?」
「まあ、そういうことだな」
「だったらそう言えば良いじゃないかね、自由だの束縛だのって……面倒くさい子だね」
「ははは、そうだな、今度からお袋にはなるべく面倒くさくない様に話す事にするよ」
お袋の言うとおりだ……こういう暮らしもいいものだ、それで充分じゃないか……。