家族の季節
息子の夏(三)
「いってらっしゃ〜い!」
長い夏休みも終わり、今日から新学期。奈津がこの家から初めて幼稚園へ登園する朝が来た。
千佳と直人の部屋の間の壁を取り払い、一部屋にするリフォームが終わった八月末、理恵子と奈津はこの根岸家にやってきた。そして、葉子夫婦との四人の暮らしが始まっていた。あとは直人の退院を待つだけだ。
病院で葉子が同居を提案した翌日、理恵子は奈津を幼稚園へ送り届け、その足で根岸家を訪れた。
「お義母さん、早速ですが昨日のお話は本当でしょうか?」
アイスコーヒーを出しながら葉子が答えた。
「唐突で驚かせてしまったわよね。
直人が出て行ったら、この家は主人と私のふたりだけになってしまうでしょ。だから一緒に住めたらと思ったの。でも、もちろんあなたたちが決めることだから、私に気を使うことはないのよ。今どき相手の実家に同居する方が珍しいですものね」
すると、理恵子は真剣なまなざしで言った。
「いいえ、ぜひそうさせてください」
葉子は驚いた。
理恵子の訪問の目的は同居の返事であることはわかっていたが、考えさせてほしいというものだろうと思っていた。断るにしてもすぐというのでは角が立つし、理恵子の口からは言いにくいだろうから。
「自分から言いだしておいて何だけど、本当に無理しなくていいのよ」
「無理なんかしていません。
私の両親はもう亡くなりましたし、親しくしている身内といっても姉がひとりいるだけです。その姉にも前の夫とのことでは迷惑をかけ、未だに私たち母子のことでは心配をかけています。
ですから、こちらに家族として迎えていただけたら姉にも安心してもらえます。そして何より、ずっとふたりだけで淋しい思いをさせてきた奈津に、家族の暮らしというものを味わわせてやれます。
どうかよろしくお願いします」
葉子は次の日、同じ沿線に住む千佳のところへ出かけた。
連日の真夏日で日傘は手放せない。駅から歩いて十分ほどのマンションに着く頃には、もう汗が全身から噴き出していた。
あらかじめ電話を入れておいたので、千佳は冷たい飲み物を用意して待っていた。冷房の効いた部屋で、冷えた麦茶をおいしそうに飲んだ葉子は、ふっと息を吐いて言った。
「生き返った気分だわ」
「直人はどう? これから病院へ行くなら私も行くわ」
あの騒動以来、千佳はすっかり丸く穏やかになり、その変貌ぶりは母親から見てもうれしい。人は幾つになっても変われるものだと教えられた思いがする。
今の千佳なら理恵子のことも理解が得られるだろう。でも、さすがに言い出しづらい。自分が初めて知った時の驚き、憤りは当然千佳も感じるであろうから。
ふたりが結婚の許しを得にやってきたあの日から悶々と過ごした一週間、葉子は相談相手にならない夫を除けば、千佳に聞いてもらうしかないと思った。
でも、葉子自身の気持ちは揺らいでいたし、理恵子とは小一時間話した程度でまだ彼女のことはよくわからない。そんな状態で話しても、千佳も巻き込み騒ぎを大きくするだけのような気がした。そうこう考えているうちにあの事故が起こった。
「あのね、事故の原因なんだけど……」
いつかは話すことなのだ、葉子はそう自分に言い聞かせ、話を切り出した。
直人が突然理恵子を連れて家にやって来たあの日のことから、今回の事故の顛末まで、すべてを打ち明けた。
途中で
「ええ!」
とか
「嘘でしょ!」
とか驚きながらも最後まで話を聞いた千佳は、しばらく黙り込んでしまった。
そして言った。
「お母さんとしては納得したんだ?」
「ええ。いろいろ考えたわ。釈然としないところがどうしてもあって、現実を受け入れるべきだという思いと行ったり来たりで……
でもね、直人の手術中に奈っちゃんの目を見た時、スーッと目の前の霧が晴れた気がしたの。子どもの力ってすごいものね。本当に大切なことに気づかされた気がしたわ」
「お母さんがいいなら、私は別に何も言うことないわ。
年上の義妹と、愛と同い年の姪ができるわけね。それから来年にはもうひとり甥か姪が増えるんだ。
部屋のこともいいわよ。嫁に行ったのにいつまでも自分の部屋がある方が変な話よ。また、それが必要になるようでも困るし」
家に戻ると、葉子はすぐにリフォーム会社に連絡して、改装の段取りをつけた。
すべて葉子任せの康夫は、息子夫婦の結婚も同居も、そしてリフォームに関しても一切口を挟まなかった。この時ばかりは、そんな夫でよかったと思った。
でもはたして、そんな人が必要なのだろうか……
そして九月に入り、いよいよ直人の退院の日がやってきた。
理恵子に支えられたリハビリが実ったのだろうか、危惧された後遺症の心配もなくなっていた。
まだ松葉づえ姿の直人だったが、久しぶりに帰った我が家には、お腹が少し目立ち始めた理恵子と奈津が待っていた。
「母さん、いろいろとありがとう」
「ううん、二人が来てくれて本当によかったわ。
理恵子さんはよくやってくれるし、奈っちゃんはおりこうさんでかわいいし、この家が一気に明るくなった感じよ。こちらこそお礼を言いたいくらい。あとは来週の結婚式ね」
「式といってもごく内輪のお披露目だからどうってことないよ。僕がこの姿で、理恵ちゃんもあのお腹だから」
直人は照れ臭そうに笑った。
「そうね、形式的なことなんてどうでもいいわね。
昔の結婚式こそ、今思えば変だったわよね。顔も知らない会社関係の人とか、義理だけの親戚とか、そんな人たちに祝ってもらったんだから」
そして、その結婚式当日がやってきた。
チャペルで誓いの言葉を交わし、賛美歌に包まれた理恵子は、そこにいた誰もが見惚れるほどの美しさだった。
その後の食事会で親族の紹介が行われた。
親族と言っても理恵子側は姉の一家だけで、根岸家も康夫と葉子それぞれの兄弟が顔を揃えただけのささやかなものだった。そしてその頃には、同い年のいとこになった愛と奈津はすっかり仲良しになり、大人の間を走り回っていた。
千佳が葉子に話しかけた。
「お母さん、理恵子さんて本当に素敵な人ね。直人にはもったいないわ」
「でしょう?」
「一緒に住んでくれるお嫁さんなんてそうはいないんだから、大切にしなくちゃだめよ」
「わかってます!」
今の葉子にとって理恵子は大切な存在になっていた。だがその分、康夫との距離がまた広がった気がするのだった。