家族の季節
夫の秋(一)
六十歳を迎えて、康夫は今年末の定年後のことをずっと考えていた。
そんな時、ふと以前出張で立ち寄った、瀬戸内海に面したある島の果樹園を思い出した。とてもいいところだった。定年になったらこんなところに住むのも悪くないと思ったものだった。
しかし、その頃はまだ若かったので、定年などまだまだずっと先のことだと思っていた。それが今や目の前に迫っている。いつのまにか歳はとるものだ。
朝晩の涼しさに、秋がめっきり深まったことを感じられるようになった頃、康夫は瀬戸内海への移住について本腰を入れて調べ始めた。
定年間近の身では、仕事と言っても引き継ぎなどの残務整理的なものが多く、やりがいがあるとは言い難い。これからのことに身が入っていくのは致し方ないだろう。
本屋に立ち寄ったり、パソコンを叩いたりして調べていくうちに、康夫はだんだんその気になっていった。葉子も、温暖な地で老後を送ることを喜ぶに違いない。
思えば、こうやって無事に定年を迎えられるのは、妻のおかげでもある。家のことをすべて託し、仕事に没頭できたのだから。これまでの妻の労に感謝し、二人で定年を祝い、そして、二人で新たなスタートを切ろう。
直人たちが外出した日曜の午後、康夫は満を持して、葉子に自分が密かに立てた計画を打ち明けた。
「あなた、本気じゃないですよねえ?」
葉子の予想外の反応に康夫は驚いた。
「もちろん、本気だよ。おまえもこれまでよく家を守り、俺を支えてくれた。これは俺からの感謝の気持ちでもあるんだ。
気候の良い所でのんびり暮らすのもいいじゃないか。向こうの方が物価も安いし、果樹園を手伝う仕事はたくさんあるそうだ。体を動かす仕事というのは健康寿命にも役立つと、本にも書いてあったよ」
これまで照れくさくて言えなかった感謝の思いを伝え、妻の感動する姿を期待した康夫だったが、葉子の反応はそれとは全くかけ離れたものだった。怒りを漂わせたキツイ眼差しで、こうまくしたてたのだ。
「ローンの支払いがやっと終わって、直人たちも同居してくれて、ここが私たちの終の棲家ではないですか! なんで今さら知らない土地へ行って暮らさなければならないの!」
「母さんは行ったことないからそう思うんだ。いい所だぞ、今度一緒に行ってみよう」
「結構です!」
康夫には葉子の気持ちがわからない。驚くことは予想していたが、あんなにはっきりと拒絶されるとは思いもしなかった。そしてだんだん腹が立ってきた。
(俺はこれまで家族のためにずっと働いてきた。ギャンブルに手を出すでもなく女遊びをするでもなく、ただただまじめに勤め上げてきたんだ。定年後の暮らしぐらい、俺が決めたっていいじゃないか! それともまだまだ働けとでも言うのか!)
康夫はぷいと家を出て、やったこともないパチンコ屋に入った。でもすぐに手持ちの金は消えてしまい、ブラブラ歩きながら家に向かった。
やがて、我が家が見えてきた。三十年以上経った家はそれなりに古びていたが、まわりに調和してすっかり町に溶け込んでいる。これが俺たちの終の棲家だというのか……
それからしばらくは、ふたりともその話題に触れることはなかった。直人一家のおかげで、バタバタとにぎやかな日常がただ過ぎていった。