家族の季節
息子の夏(一)
こんなはずではなかった――
葉子は息子と見知らぬ女性を前にして、嫌な予感に包まれていた。
千佳の件では大変な思いをした分、葉子はにぎやかな家族旅行というご褒美を手に入れた。生きていればこんないいこともたまには巡ってくるものだと葉子は思った。康夫とふたりきりではなかったこと、それがより楽しいものとなったのだろう。
非日常の興奮を満喫した五月が過ぎ、うっとうしい梅雨も明け、暑い夏の訪れとともにその日はやってきた。
朝から夏の強い陽が射し、庭の草花も萎れそうに元気をなくしていた。葉子は目深に帽子をかぶり、日焼け止めクリームを塗った万全の態勢でホースを伸ばした。
リビングの窓越しに、涼やかな室内で新聞を広げる康夫の姿が目に入った。日曜だといっても家のことには何の関心も持たず、もちろん何一つ手伝うこともない。
葉子は水を撒きながら、あの五月の旅行を思い出していた。あの時感じた幸福感は何だったのだろう? 定年後の夫との暮らしに耐えるべく、神から与えられた契約の証のように思えてきた。あんないい思いをしたのだから、あとはしっかり耐えなさい、と。
花の水やりを終え、ホースを片付けていると、リビングの窓を開け康夫が呼び掛けてきた。
「誰か来たぞ」
(出てくれればいいのに――)
葉子はその言葉を飲み込んで、急ぎ足で玄関に向かった。するとそこには息子の直人の姿があった。
「あら、いったいどうしたの?」
葉子にはわけがわからない。自分の家に入るのにチャイムを鳴らし、玄関で待つ理由が思いつかなかった。
「入って」
直人が玄関の外へ向かって声をかけると、ひとりの女性が顔を出した。
「彼女、石川理恵子さん。話があるから上がってもらってもいい?」
「石川です、初めまして」
葉子はスリッパを勧め二人を招き入れたが、心の中の胸騒ぎを抑えられなかった。康夫を呼び、ソファーに座る三人を意識しながら、葉子はお持たせの菓子でお茶の用意を始めた。そして、手を動かしながらも、頭の中ではこの事態を必死に整理していた。
彼女がいるような話など聞いていないし、彼女にしては女の方がかなり年上だ。そして事前に何の連絡もなく突然連れてくるとは――訳あり――母親としての、いや女の勘が葉子の心を不安にさせた。
「母さん、何をしているんだ、早く来いよ」
康夫は何も気づいていない、暢気なものだ。菓子と茶をテーブルに並べて葉子が座ると、待っていたかのように直人が話し始めた。
「理恵子さんは取引先の会社に勤めていて、仕事で知り合ったんだ」
「理恵子さん、まあ、お茶でもどうぞ」
康夫が茶を薦めた。葉子は、夫が理恵子を気にいったのはすぐにわかった。なぜなら彼女がかなりの美人だったからだ。その美貌がまた、葉子にさらなる不安を与えた。
「素敵なお嬢さんだ。直人、お付き合いをさせてもらっているんだろう?」
康夫はやけに饒舌だった。
「ああ、僕たち結婚――」
「理恵子さん、失礼ですけどお幾つですか?」
直人の言葉を遮って葉子が尋ねた。
「三十五です」
(やっぱり……でも年齢より若く見えるわ)
「直人より十歳も年上なんですね」
「母さん、そんな言い方失礼じゃないか、今時年の差婚なんて珍しいことではないさ、なあ直人?」
擁護に走る康夫など気にも止めず、葉子が続けた。
「ご結婚の経験は?」
「一度……」
(やっぱり……この美貌でこの歳まで一人のはずはないわね)
「お別れになった理由は?」
「夫のD?です」
「そんな尋問みたいな聞き方はいくら母さんでもひどくないか!」
直人が口を挟んだ。康夫も加勢に加わった。
「そうだよ、離婚も今どきよくある話じゃないか。苦労した分幸せにならなければね」
「理恵子さん、気を悪くしたらごめんなさいね。あとひとつお聞きしたいんだけど、お子さんは?」
「ひとり、五歳の娘がいます。今日は姉に預かってもらって来ました」
(結婚していたなら子どもがいたって不思議はないわ)
康夫は、今度は何も言わなかった。重苦しい空気が流れる中、直人の口からとどめの言葉が発せられた。
「実は――子どもはもうひとりいるんだ。理恵子のお腹の中に僕の子が」
一瞬で夫婦の顔色が変わった。その批判的な表情に立ち向かうように直人は付け加えた。
「十も年上でバツイチ、子持ち、反対されるのはわかっていたよ。だから既成事実を作るしかないと思ったんだ」
康夫は用を思い出したとか、ブツブツひとり言を言って席を立った。肝心な時に逃げ出すのはいつものことなので、葉子は今さら驚きもしない。ただあんなに最初は気に入っていたのに、手のひらを返すような態度は我慢ならなかった。
しばらく続いた沈黙を破って、葉子が言った。
「まだ目立たないところを見ると三か月くらいかしらね。大事な時だから気をつけてね。今日は突然のことで驚いてしまって、正直、何を言っていいかわからないわ。また日を改めてお話しましょう」
誰もいなくなったソファーから庭に目を向けると、先ほど水を撒いた花々が気持ちよさそうに風に揺らめいていた。
さっきの時間に戻りたい……何も聞きたくなかった……何も考えないでただ横になりたい。
でも二階に上がれば康夫がいる、それも今の葉子には耐え難いことだった。