家族の季節
妻の冬(二)
葉子は毎晩のメールチェックが楽しかった。正也からのメールは葉子を学生時代にタイムスリップさせた。正也の話を誰かにしたかったが、唯一話せる相手である理恵子とのゆっくりとした時間はなかなかやって来なかった。
そしてやっと訪れた休息の午後の時間、堰を切ったように葉子は話し出した。
「うまくいったのよ、理恵子さん。正也さんて言うんだけど、今度会ってみようと思うの」
「よかったですね、お義母さん。それでどんな方なんですか?」
「歳は二歳下の五十五歳、設計事務所を開いているの。つまり設計士さん。会ってみないとわからないけれど、メールではとても感じのいい人よ」
「それでご家族は?」
「奥様は十年前に病気で亡くなられてお子さんはいないそうよ」
それを聞いて理恵子の表情が少し曇った。
「お子さんがいないご夫婦ってとても仲が良いといいますよね。それに死別の人とは再婚するなとも……」
「確かにね。でももう十年もたっているし、子どもさんがいない方が気楽だし。とにかく会ってみてからの話だけどね」
「お義母さん、どこがそんなに気に入ったんですか?」
「インスピレーションとでもいうのかな? あっ、この人!って感じ」
次の日曜日、初デートの日がやってきた。直人には友だちに会うとだけ告げた。母親としての照れもあるし、婚活していること自体、理恵子以外には知られたくない。普段と違う装いに驚いた直人は、同窓会にでも行くのかと聞いたが、昔の友人に会うとだけ答えて家を出た。
待ち合わせ場所は渋谷のハチ公前だった。自分たち世代にとっては定番の場所だ。
五分前に着くともう正也が待っていた。写真通りの顔ですぐにわかった。中肉中背、ラフなジャケット姿は四十代でも通りそうだ。正也の方もすぐに葉子に気がついた。
「こんにちは。いや、初めましてかな?」
そう声をかけられ、葉子は丁寧に挨拶した。
「初めまして、根岸葉子です」
籍は抜いたが姓はそのままにしておいた。旧姓に戻すのはいかにも出戻りのようだし、長年名乗ってきた名前に愛着もある。
「ご丁寧に、山口正也です。初デートですから映画でもお誘いするところかもしれませんが、お互いのことをまず知りたいので、ゆっくりお話しませんか?」
「ええ、そうですね、そうしましょう」
「では駒沢公園でも行きますか?」
ふたりはタクシーで駒沢公園へ向かった。
広い公園内は、散歩を楽しむ家族連れや軽いジョギングで汗を流す人など、思い思いの休日を楽しむ人が多く訪れていた。その中を散策しながら、ふたりは言葉を交わした。
「ここは東京オリンピックの会場になったんですよね。私はまだ小学校の低学年だったので、テレビ放送されたのを何となく覚えているだけですけど」
「僕はもっと小さかったから覚えていませんね。
葉子さん、本当はお付き合いしながらゆっくりとお互いを知っていくのがいいとは思うのですが、若い時とは違って時間がありません。不躾ですがいろいろお聞きしていいですか?」
「ええ、同感です。時間との競争ですものね」
「葉子さんは去年の暮れに離婚されて、もう再婚を望まれているようですが、その辺のことをお聞きできますか?」
痛いところを突かれたと思った。本当は結婚までは望んでいなかったが、それを前提にしないと誠実な相手に出会えないと思った。
「ええ、実際に離婚したのはその頃ですが、去年の初めからちょっといろいろとありまして――
秋に夫が私の意向を無視して地方に移住する計画を進めたことで、離婚を決意しました。そして十二月に夫が定年を迎えるのを待って正式に離婚しました」
「そうでしたか。いっしょに移住されるのがそれほど嫌だったわけですね?」
「ええ、息子一家と同居している家を離れる気はありませんでした」
正也はその言葉に反応したかのように尋ねた。
「それでは、再婚相手にはそちらで暮らして欲しいと?」
葉子はまずいと思った。そこまで先のことはまだ考えていなかったが、確かにそう言っていることになる。
「いいえ、孫たちと遠く離れるのが嫌なだけで、どうしても今の家に住みたいというわけではありません」
家を出る時はデート気分で浮ついていた心が、どんどん萎んでいくのを感じた。これは面接なのだ、実務的な話し合いなのだ。葉子は、デートと婚活の違いを思い知らされた。
ところが、食事のためレストランに場所を移しランチタイムが始まると、またデートの雰囲気が漂ってきた。
葉子さん葉子さんと名前で呼ばれ、女性として扱われたのは独身以来ではないだろうか。楽しい時間はあっという間に過ぎた。そして、来週は正也の家を訪問する約束をして別れた。
家に戻ると、葉子は出迎えた理恵子にこっそり?サインを送った。
そして待ち遠しかった一週間が過ぎ、約束の日がやってきた。またスーツ姿で出かける葉子を見て、直人が不審なまなざしを向けたが、気にせず家を後にした。
正也の家は広尾の高級住宅街にあった。オシャレな家並が続く通りの角に事務所兼自宅を構えていた。
事務所とは別の玄関を入ると、すぐに階段があり、二階に上がった。すると、広いリビングが葉子を出迎えた。男のひとり暮らしとは思えないほどきれいに片づけられ、几帳面さがうかがえる。趣味のいい家具が配置され、ここで暮らす自分を想像し、葉子は自然と笑みがこぼれた。勧められるままにソファーに掛けると、正也がケーキとコーヒーを運んできた。恐縮して礼を言う葉子に、
「今日はお客様ですから」
と正也は微笑んだ。
(こんな相手に恵まれるなんて……)
と感激したのはこの瞬間までだった。
「葉子さん、これが亡くなった妻です」
そう言ってオシャレな仏壇に飾ってある、きれいな女性の写真を見せられた。あまりに洒落た家具なので、最初は仏壇だとは気がつかなかったが、たしかに花と線香が供えてある。
「条件というか、これはお願いなのですが、この家に住んで妻をいっしょに供養していってほしいのです」
葉子は一気に夢から覚めた。
(この人は何を言っているのだろう?)
もう、この家を訪ねることは二度とないと悟った葉子は、思い切って聞いてみた。
「そんなに奥様を愛していらっしゃるなら、どうして再婚を望まれるのですか?」
「それはもちろん、ひとりの老後は淋しいからですよ。いくら妻を愛していても、死んだ人間とは暮らせませんからね」
葉子はますます混乱した。
家に戻ると、理恵子に向かって首を横に振った。そして、パソコンを開くと丁重な別れのメッセージを正也に送った。