家族の季節
夫の秋(四)
翌週の休み、康夫は早朝に家を出て、瀬戸内海に浮かぶ小さな島を訪れた。そこにはパンフレットの写真そのままの美しい風景が広がっていた。まさしく風光明媚とはこのことだろう。
前もって連絡を入れておいたので、役場の人が同行してあちこちを案内してくれた。おいしい空気、温かい地元の人たち、康夫はすっかりここが気に入ってしまった。もうこのまま帰らずに、住んでしまいたいと思ったくらいだ。役所のロビーでいろいろ移住に際しての話を聞き、帰りの新幹線ではもうほぼ心は決まっていた。
カレンダーも最後のページになり、出勤日も残り少なくなった。あれ以来、葉子とは必要最小限の会話だけの毎日が続いている。その必要な会話で移住のことを伝えた。
「会社も今週いっぱいだから、来週には向こうに手続きに行ってこようと思う。離婚届の方も書くから出しておいてくれ。財産分与や年金などの手続きは知り合いの専門家に頼むが、君に悪いようにはしないよ」
「わかりました」
そう返事をして葉子は離婚届を取りに行った。そして、差し出された用紙を受け取りながら、康夫が言った。
「この前は悪いことを言ってすまなかった。本心ではないから許してくれ」
「もういいですよ、あなたが行きたい道を歩いて行ってくれればそれで。ご縁があって長い間一緒にいたのですから」
離婚届に署名を終えると、康夫が感慨深げに言った。
「これは、いろいろな手続きが終わったら僕が出しておくよ。出したら知らせるから、そうすれば僕たちは……友人だ」
互いの胸に複雑な思いが去来した。
(やさしくていい夫だった――)
(家庭を守り、子どもたちのいい母親だった――)
(別れなければばらないほどの欠点だったかしら?)
(妻の気持ちを翻意させることはできなかったのだろうか?)
(憎しみ合っての別れでないのが救いだわ)
(いつか訪ねてきたら歓迎しよう)
そして、二十三日の天皇誕生日、千佳一家を呼んでクリスマス会を開いた。
臨月に入った理恵子を気遣い、葉子と千佳のふたりで部屋は飾りつけられ、食卓にはご馳走が並べられた。子どもたちの笑顔と歓声の中、乾杯とプレゼント交換、食事を交えた楽しい団らんが続いた。
そして頃合いを見計らい、康夫と葉子が話があると言ってみんなを座らせた。
「今日は、みんなで楽しいクリスマスを過ごせてうれしいよ。でも、ひとつ報告することがあるんだ。
突然で驚かせてしまうだろうが、実は……私たち夫婦は離婚することになった。
と言ってもけんか別れなどではなく、私が瀬戸内海の島へ移住することになったからだ。母さんはここに残りたいという希望で、それぞれの道を歩くことにした。
千佳、直人、これからも親子には変わりないからな。それからみんな、母さんのことは頼んだよ」
一同は唖然とした表情で、しばらく誰も言葉を発しなかった。驚きと悲しみ、切なさがみんなの胸に押し寄せた。幼い子どもたちはその異様な空気に泣き出してしまった。
「ごめんごめん。楽しい夜が台無しになってしまったな。気を取り直してパーティーを続けよう」
だが、とてもそんな雰囲気に戻れるわけもなく、クリスマス会はお開きとなった。
年が明け、最後の正月を家族そろって迎えた。
そして、松が明けると康夫は移住先へと引っ越して行った。還暦の旅立ちを家族みんなで見送った。それはあっけないほどの別れだった。
葉子はその夜、ひとりになるとなぜか涙が止まらなかった。
あんなに一緒にいるのが嫌だった夫だったが、三十年という月日の重さからだろうか、親よりも長い時間を共に過ごした伴侶との別れは、深い感傷をもたらした。