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詩集 言の葉のたから箱【紡ぎ詩Ⅴ】

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 たまに買う焼きそばパンは、土曜日の一番の愉しみといえた。雑貨屋にはいつも小柄なお婆さんがいて、買いに行くと愛想よく対応してくれた。たまには、ちょっとした文具、消しゴム、シャーペンの芯をを買った。
 数十年後、我が子が同じ中学に通うようになり、たまにパンを買うときにはその店で買っているという話を聞いた時、嬉しいような懐かしいような、何ともいえない気持ちに囚われたものだ。
「優しいお婆ちゃんはおるかな?」
 訊ねたけれど、店番をしているのは中年の女性とのことだった。数十年前に既に老齢だったのだから、現在生きておられても相当の高齢だろう。無理もない。
 第一子が中学生だった頃はまだ営業していたそのお店も現在、末っ子が中学生になった今は営業はしていないという。シャッターの降りたそのお店の前を今でも通りかかる度に、あの焼きそばパンの滋味と優しかったお婆さんの笑顔がありありと蘇る。
 今日、スーパーで見かけた焼きそばパンを買い、家に帰って食べてみた。ひと口囓った時、懐かしさのあまり涙の塊が湧き上がった。


☆「最後の授業」
明日、模擬試験があるのに、なかなか眠れない」
 中学三年の末っ子が昨夜、呟いた。既に室内の灯りも消し、母子共に布団に入っている。時間はとうに午前零時を回っていた。
 娘は来春、高校受験を控えている。人生で初めての大きな試練といって良い。明日ー正確には日付が変わっているのでもう今日だがー、模擬試験で緊張しているに違いない。
「大丈夫、眠れなくても眼を閉じて布団に入っているだけでも身体を休められるから」
 私はアドバイスした。何を隠そう、私自身、数十年前の高校受験時、担任教諭から貰った言葉である。忘れようとしても、いまだに忘れられない光景がある。
 当時、私は娘と同じ中学に通っていた。あれは確か中学での最後の授業を終え、帰りの会での出来事だ。最後の授業は英語で、教科書には「レッスン1」から順番に単元ごとに「レッスン○」と分けられている。しかし、最後の単元は「レッスン○」ではなく、「THe Last Lesson」だった。アルフォンス・ドーテの短編小説「最後の授業」が丸ごと教材として掲載されていたのだ。
 文字通り、その英語の授業が中学生活を締めくくる私たちの最後の授業となった日だ。最後の一日を終えた教室内は、水を打ったように静まり返っていた。いつもならショートルームでは伝達事項を伝える先生の話が聞き取れないほど、騒々しいはずだ。なのに、誰も言葉を発しようとしなかった。
 やはり、誰もが明日に高校受験を控え、無駄話をする余裕もなかったのだろう。突如として、ある男子生徒が沈黙を破った。
「先生、今夜は緊張して寝られそうにねぇわ」
 先生は私たちを教壇から一通り見回し、落ち着いた声音で言われた。
「大丈夫、布団に横になって眼を閉じているだけで、身体を休められるから。眠ろうと無理をしたら、かえってストレスになり余計に眠れなくなるから、眠れなくても気にするな」
 担任は三十代の優しく穏やかな男性教師だった。そのひと言は私の心に深く響いた。随分昔なので、当日、自分が眠れたかどうかまでは憶えていない。けれど、先生がくれた言葉だけは不思議なお守りのように、人生初の大きな挑戦に向かう十五歳の心を励ましてくれた。
 我が子たちが同じ立場になった時、必ずこの科白を伝え、励ましてきた。上の三人の子どもたちがその試練を終え、今、末っ子が今度はそれに立ち向かおうとしている。忘れられないこの言葉を我が子に伝えるのも恐らくこれが最後になるだろうと思いながら、昨夜、数十年前、初めてこの科白を聞いた日を思い出した。
 あれから気の遠くなるような月日を経た今でも、早春の夕陽に照らされた静かな教室、いつになく寡黙だったクラスメートたちの表情が鮮やかに蘇る。